関連書籍紹介:『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡―』

関連書籍紹介
ジュリアン・ジェインズ著
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡―
(柴田裕之訳、紀伊国屋書店刊、2005年)
甲田 烈(本学会常任理事)

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

ジュリアン・ジェインズというと、おそらく知る人は少ないだろう。しかし、トランスパーソナル学に関心を寄せる実践家や研究者にとって、その仕事は大きな刺激を与えてくれるものであることは確かである。『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡―』(“The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind”)は、事実、海外のトランスパーソナル学研究者には必読の書として認識されており、たとえばCIIS(California Institute of Integral Studies・カリフォルニア統合学研究所)でも課題図書として用いられている。原著の出版は1976年と古いが、訳書は80年代の改訂版を用いている。われわれは、ジェインズの原典のみならず、その後の異論・反論に丁寧に答えた論考まで、日本語で読めるのである。

 さて、ジェインズの『神々の沈黙』におけるキーワードは二分心(Bicameral Mind)である。紀元前2000年期末あたりまで、人間には「意識」がなかったという仮説により、脳科学や古典の文献学的な研究・考古学に基づいた人類の進化史が述べられている。

 留意しなければならないのは、突拍子もなく見える仮説ながら、ジェインズのものはいわゆる疑似科学的な「トンデモ説」ではなく、実証的であることである。彼自身、プリンストン大学で比較生物心理学を専門に講じていた学究なのである。

 「意識」がなかった古代人といっても、肝心な意識の定義がなされなければ話にならないだろう。そこでジェインズは本書の第一部でまずその定義から始める。

 一般に、われわれは人間にとって「意識」というものを、とても重要なものと捉える傾向がある。しかし、そうであろうか。たとえば私は今キーボードをたたいているが、その動作や次に展開される内容についてほとんど「意識」していない。それどころか、「意識」したとたんに、動作は滞ってしまう。また、たとえば車の運転や水泳についても、このようなことが言える。やはり車の運転についていちいち「意識」していてはうまくいかないし、クロールの動作を逐一「意識」しようものなら、かえって溺れてしまうだろう。このように、われわれの日常生活の多くを占める要素は「意識」が関与していないのだとジェインズは考える。

 しかしながらその反面、意識には次に述べるような機能もある。すなわちある物事を空間化し、物語化し、整合化するという働きである。

 これは言語の持つ比喩の働きと密接に結びついたものである。たとえば、空に浮かぶ星座・駅前のデパート・家族の顔を想い浮かべたとしよう。そのさい、われわれはこれらのものを心的な「空間」に併置して一望することができる。また、昨日一日何をしていたかを想い浮かべる。これは「物語」化である。また、山道の真ん中で二股の進路に出会ったとしよう。その場合、どちらの道を行くとどうなるかということを、実際にその道を歩まずに想像することができる。そして、その帰結について「整合的」に説明することができる。このような、「意識」の機能について、ジェインズは「アナログの私」という言い方をする。つまり、自分自身を心的空間の中で「内省」できる視点である。

 このような「意識」の定義はとても狭いものだが、今日のわれわれのイメージで言えば「合理性」に適合するものと言える。ケン・ウィルバーの『進化の構造』における合理性の記述とならんで、注目するに値するものであろう。

 そして、紀元前2000年末まで「意識」がなかったということは、このような空間化・物語化・整合化がなかったことを意味する。「意識」とは、脳のハードウェアの変化に基づくものではなく、後天的に進化の過程において「獲得」されたものなのである。

 そのことを傍証するために、ジェインズは脳の構造に着目する。大脳における右脳と左脳の機能という、よく知られた話ではある。ジェインズは古代の神々の物語について、それらが「聞く」という形で伝わっていることに注目する。ワイルダー・ペンフィールドは脳の右側の側頭葉に微弱な電流で刺激する実験から、被験者が「なにものかの声を聴く」ということを報告しているが、このような「幻聴」は健常者にも見られることであり、自分の名前を呼ぶ声や忠告・助言・命令などの短いフレーズが聞こえる場合がある。そして統合失調症のクライエントの場合、それはより顕著なものとなる。このことからジェインズは、人間の脳はもともと「幻聴」を聞くようにできており、それは右脳の機能に由来する。そして神々の声を「聞いた」古代人たちは、実際にその声を「聞いた」のであり、その声に左脳が従うという形で生きていたのではないかと結論づけるのである。そしてこの命令を下す「神々」と従う「人間」という精神構造を「二分心」と名づける。

 その一例として、ホメロスの『イーリアス』を読むと,そこには神々の声に従う人間の姿が描かれており、そこに現代人のような「内省」は見られないということが、第一部の末尾で文献学的に論じられている。そして第二部では、シュメール・アッカド・インカにおける神制政治など、広範な考古学的・文献学的根拠から、詳細にこの議論が跡づけられている。ギリシャにおいて「意識」の誕生の証拠を見ることができるが、それはデルフォイの神託の衰退に関連づけて述べられる。「神託」とは、直接「神々」の声を聴けなくなった人間が、シャーマン・巫女などの、未だそうした「二分心」の能力を持つ人間を通して神々の声を聴こうとする営みであるが、やがて「神々の声」は「意識」の誕生とともに聞こえなくなり、「神託」は占いや神秘主義へと劣化してしまう。

 それでは、「意識」の誕生を促したものは何かと言えば,それは外的な環境の変化に適応するためだったというのが、ジェインズの理解である。それは異民族との接触や資源の枯渇、裏切りやあざむきを契機として促進されたのではないかという。

 またジェインズは第三部において、現代における宗教や詩や音楽、催眠術や憑依現象など、そしてむろん統合失調症の症例について、「意識」の誕生によって背景に退いた二分心へのノスタルジアが大きく関与していると考えている。このへんのところは、変性意識の研究について、再吟味を促すものであろう。ジェインズの優れたところは、「そして本書も例外ではない」と述べているところである。何かを語ろうとするときに、自己が「どこ」から語っているのかを明確に示すことには共感できる。

 ただ、注意しなければならないのは、二分心の解明は、人類の過去への「退行」を促すものではないということである。ジェインズもそのことには注意を払っている。よく精神世界・ニューエイジの界隈では今だに見られる論調だが、「過去への回帰」や「思考をとりのぞいた、あるがまま」への回帰によって、人類の幸福は約束されないし、他ならぬ「意識」によって生じた現代の諸問題も解消されないであろう。

 ジェインズの『神々の沈黙』からは、このように、さまざまな洞察を取り出すことができる。そこから思い思いに、思索を深めていくことができるだろう。とりわけ、私は「意識」の進化ということを、進化の「意識」として論ずることの可能性について、考えさせられた。これは、「意識」が進化するのではなく、「進化」のプロセスにおける産物が「意識」であるということである。

 われわれは「意識」というものを、特に心理学でも学んでいると、過大に重視しがちである。ところが、「意識」が人類の進化の過程で「獲得」されたものであり、「二分心」の精神構造が基盤にあるものと考えることは、「自己意識」をごたいそうに考える呪縛から人を解放するし、古代の文化や人類の進化の営みについて、より共感的な理解を可能にするだろう。

 そうした意味では、二分心と意識との統合が、次の進化における重要な課題になるかもしれない。もちろん、このような読み方だけではなく、神話学・考古学・大脳生理学・深層心理学などについて関心のある方は、この本によって大いに知的好奇心を満足させることができるに違いない。

 ジェインズは研究者としては寡作で亡くなっているため、『神々の沈黙』も埋もれた名著といったところであるし、彼自身には著作で見るかぎり、トランスパーソナル学やユング心理学との交流も見られない。けれども、それは残された課題かもしれないし、単に読み物としても、溢れるばかりに充実している。

 一読して、損はない一冊である。