書評:『真実への旅』
書評
『真実への旅』斉藤 啓一(著)
サンマーク出版
鈴木 規夫(本学会副会長)
霊性(spirituality)という営みには、本来、「自己肯定」と「自己否定」という対極的な要素が息づいている。
しかし、今日「スピリチュアリティ」とよばれているものは、総じてそうした対極性を統合する成熟した叡智に支えられたものではなくなってしまっている。
「ありのまま」の自己を肯定するという美名のもと、それらは退嬰的な自己耽溺を正当化するための方法に堕してしまっているのである。
ただ、ひところのあいだ流行したそうした「スピリチュアリティ」の問題も漸くここにきて徐々に認識されはじめているようである。
そして、今、あらためて評価されはじめているのが、禅をはじめとする伝統的な修行であり、また、継続的な実践を通して自己との真摯な対峙を奨励する正統的なスピリチュアリティである。
先日、こうした機運の変化を象徴するような優れた著書が刊行された。
斉藤 啓一氏による『真実への旅』という作品である。
斉藤氏は、これまでに『ブーバーに学ぶ:「他者」と本当にわかり合うための30章』や『フランクルに学ぶ:生きる意味を発見する30章』(共に日本教文社)等の著者として知られている思想家あるが、その著作活動をとおして、一貫して「意識の覚醒」という主題を探求してきた。
その作風は禁欲的なもので、そこでは安易な「慰め」や「癒し」が拒絶され、徹底して、日常の実践と探求をとおして、自らの目で真実をつきつめることが強調される。
今日の「スピリチュアリティ」の市場には、荒唐無稽な虚構や幻想を呈示することをとおして、読者の自尊心を慰撫することを目的とする書籍が氾濫している。
こうした中において、そのようなアプローチを毅然と否定するだけの意思と慈愛をそなえた著者というのは実はまだ少ない。
斉藤氏は、数少ない例外といえるだろう。
表面的な優しさの蔓延に窒息するような閉塞感をいだいていている読者にとって、ときとして残酷なまでに透徹した斉藤氏のことばには清々しさをあたえてくれる贈物となることだろう。
さて、この作品は、そうした斉藤氏のこれまでの探求の集大成といえるもので、「死」の宣告を受けたある青年の「魂の旅」をカリフォルニアを舞台に物語風に綴るものである。
絶望のさなか、主人公は「ファウスト博士」という謎の人物の主催する修行ツアーに同行することになるのだが、そこで、これまでの人生観をうちくだかれるような数々の学びと気づきを経験することになる。
この作品は「霊的修行」という主題を核にすえたものであるが、物語という形態をとっているために、読者は普通の小説を読むように寛いでその内容に入ることができる。
あたかも自分自身が冒険者になったかのように、精神世界の扉をひとつひとつ開けていくようなワクワクした気持ちをあじわえるのは、この作品の魅力のひとつであろう。
しかし、そこで紹介されている修行法は決して内容を落としたものではない。
むしろ、そこには、真摯な求道精神にもとづいて、霊的な探求の根幹をなすことがらが簡潔に、そして、包括的に紹介されているといえる。
具体的には、「肉体」(Body)・「思考」(Mind)・「感情」(Heart)という3つの要素の鍛錬が、「自己観察」というもっとも古典的な霊的実践(Spirit)のうえに位置づけられ、それらが総合的に解説されているのである。
読者は、本書で紹介されるこれらの洞察や実践の方法を吸収して、自己を統合的に変容するための道標をものにすることができるだろう。
ところで、霊的修行には、超常的な現象をはじめとして、実に多様な体験や領域を含めることもできるし、また、一般的には、「スピリチュアリティ」ということばが用いられるとき、そこで意味されているのは、そうした「非日常的」なものであろう。
この作品において、斉藤氏は、そうした超常的なものの可能性を十分に認識しながらも、あえて焦点を上記の4つの領域の実践に絞っている。
それは、そうした超常的な領域の探求に興じることが、霊的営みの本質からわたしたちの意識をしばしば逸らすものであることを斉藤氏が賢明に認識するからであろう。
実際、今日の「スピリチュアリティ」を特徴付ける、超常的なものに対する過剰なまでの執着とは、結局のところ、われわれの意識をむしばむ「空虚感」(“the sense of lack”)(c.f., David Loy)を埋めようとする衝動に根差したものにすぎない。
それを霊的な探求と混同してきたところに、今日の霊性文化の頽廃の大きな原因があるのである。
何が霊性の本質にあるのということが曖昧になっている今日の混沌とした状況において、霊性を地に足のついたものに復興しようとする斉藤氏の意図は実に意義深いものといえるだろう。
霊的な探求の道は、われわれに実に豊穣な歓びと癒しをもたらしてくれる。
しかし、それは、また、われわれを限界に追い込む過酷で孤独な営みでもある。
それは、われわれに繰り返し自らの人間としての器を壊し、そして、造りなおすことを求める。
この作品の魅力のひとつとは、人間の変容というものが、その本質において、「死と再生」という過酷な試練を通して実現されるものを克明に描いていることにある。
また、そこには、真の自己肯定というものが、徹底した自己との対峙と格闘をとおして自己否定にとりくむことができるときに、はじめて到達することのできる貴重な贈物であることが活写されている。
「自力」と「他力」とは、霊的な実践を成立させる相補的な要素であるが、それらが「一」なるものとしてこの瞬間に存在していることを自覚できるためには、われわれは、統合的実践にとりくむことをとおして、自己の変容を実現する必要がある。
そのことを、斉藤氏は、過酷な試練と直面しながら苦闘する物語の主人公の姿を描きながら明らかにしていくのである。
ある意味では、この作品で述べられることのほとんどは、人類の歴史をつうじて無数の修行者により主張されてきた普遍的な洞察といえるだろう。
その意味では、ここには何ひとつ新しいことは記されていないといえるのかもしれない。
しかし、霊的修行においては、情報の「古い」「新しい」ということは、それほど重要なことではない。
21世紀を迎えても、われわれはいまだ生物種としての思春期を克服することができずにいる。
次々と衝きつけられてくる課題や問題をまえにして、完全な麻痺状態に陥っている自らの未熟さを誰よりも実感しているのは、われわれ自身である。
歴史的に伝承されてきた叡智を過去のものとして無下にできるほどにわれわれは成熟していないのである。
今、われわれに求められているのは、あらためて霊性の本質にあるものを確認して、それを21世紀の現実の中に再構築することなのである。
そして、そのためには、この作品は優れた参考書となるものであろう。
一時的な「慰め」や「癒し」ではなく、真の自己探求と自己変容の方法を模索している読者には一読を推薦したいすてきな作品である。