特別寄稿:「心のそばに学校がある:田んぼと畑と自由が学校」

特別寄稿
「心のそばに学校がある:田んぼと畑と自由が学校」
伊勢 達郎
NPO法人 自然スクールTOEC代表

 子どもたちの心や身体にとり、本当に大切なことは何なんだろう? 生きる力とは何? 基礎学力とは何? そもそも学校は本当に必要なんだろうか。

 徳島県阿南市柳島町。那賀川河口に広がる水田地帯。畑の中に手づくりの小屋(!?)2棟。ここが現在、3~5才園児22名、6~12才児童16名が通う、田んぼと畑の無認可幼稚園と小学校、TOECフリースクールだ。ここには決められた時間割も教科書もカリキュラムもない。子どもたちの一日は①困っていること、②話したいこと、伝えたいこと、③今日やりたいこと、を話し合うモーニングミーティングでスタートする。

【1】遊学の日々
彼らの実際の一日は泥んこ遊び、畑仕事、おにごっこ、釣り、工作、絵を描く、野球、サッカー、漢字、計算ドリル等々、多様でコクコク変化しながら流れていく。遊びも勉強も作業(労働)も休息もどれもが混然一体となっている。どれもが区別なく「遊び」として存在している。

そして結果的に子どもたちに多様な学びがおきている。遊びが学びとなり、学びが遊びとなる「遊学」がここに在る。

【2】農と食
 広い田畑には一年中何十種類もの作物が育てられている。米はもちろん、ここでとれた野菜や果物は途切れることなく食卓にのぼる。子どもたちも農作業の一端を担っているとはいえ、無農薬で育てられる農作業の負担はスタッフにとり、相当なものだ。
手間を考えるなら買った方がはるかに安くあがる。しかし、自分たちで世話をして、それを収穫し、分かちあってゆく豊かさは何ものにも変えがたい。トマトをちぎる。シャツで拭いてそのままガブリ。綺麗に整えられ、スーパーに陳列されたものにはないヨロコビがある。暮らしと食がつながっているのだ。キュウリであれピーマンであれ、最初に収穫するときは、「初物(はつもの)」といって、全員で少しずつ分けていただく。畑のオーナーのサチ子バアちゃんにも届ける。抑制のきいた美しい文化だ。

【3】働くことは金を稼ぐことではない
 農作物だけでなくお茶や味噌、漬物、干し芋や干し大根等、たいていのものはすべて自家製だ。効率や便利さを追求するあまり、際限なく分業され、すべてお金でかたがつくかのような現代社会。今や人は生活全体のほんの一部しか触れていない。学校もその例外ではなく、工場化してはいまいか。TOECフリースクールはすべてが手づくり。工場と比べるならさながら手作業の工房といったところか。傷んだり、壊れたりしたところは業者に取り替えてもらうのではなく、何とか自分たちで修繕する。食といい、モノづくりといい、メンテナンスといい、いつのまにか金を稼ぐことと混同されがちな、「働く」ことが本来の意味と喜びをもって存在している。

【4】信頼することがお仕事
教えるという行為は学び手が学ぼうとしない限り成立しない。しかも学び手はその学んだことすらいつでも手放し、捨てることもできる。実は大人の都合で子どもを教えることも、育てることも躾けることもできないのだ。彼らは様々な機会に学び、自らを育て躾ける存在だ。「指導される『対象』」ではなく「学びの『主体』」なのだ。この考えは、TOEC設立以来、カウンセリングであれ、自然体験活動(キャンプ)であれ、オルタナティブな学校と幼稚園TOECフリースクールであれ、一貫した背骨の部分といえる。スタッフは主体である子どもたちを支援すべく、彼らの今ここの気持ちに寄り添い、肯定的であれ、否定的であれ、ありのままの存在に敬意を払い今起きている現象を認めることに努めている。同時に自らの気持ちや在り様にも耳を傾ける。内側の自然と外側の自然で起きている現象に光をあて、居場所をつくるとプロセスが、場が、お仕事を(教育を)してくれる。運んできてくれる。場に力が宿るのだ。僕たちは信頼することがお仕事なのだろう。比較や評価から解放された子どもたちは、エネルギッシュで意欲的だ。スタッフは彼らのやりたいことの過不足のない支援をこころがけ、やりたいことができる(促進させる)場所や人につないだりもするが、たいがいのことはしゅくしゅくと時に四苦八苦しながら子どもたちは自分で何とかする。もちろんそれぞれのペースとやり方で。僕たちは感動をもってそれを見守る。すばらしい指導で依存心を助長させたり、指示待ちの受け身ライフスタイルへと追いやるようでは本末転倒だからだ。

【5】パン喰い競争
 「パン喰い競争がやりたい。」ハルト(小3)が、ひょんなことから提案。「僕もやりたい。」何人かがこのプランにのっかる。彼らは近所の図書館に出向き、パンのつくり方を研究。材料をそろえて開始。頭での理解と体験は違う。固くなったり、こげたり、生だったりとなかなかうまくいかない。一日かけてやっと納得のいくパンが焼きあがり、皆で味見。「うまい!」気前よく他の子らにもふるまう。完食。「うっ? まてよ。パン喰い競争のパンは?」大笑いとガックリ入り混じりながらパンづくり再開。パン喰い競争はいつできるのだろう。(実際は翌日大もりあがりでおこなわれた。彼らの学びは単にパンのつくり方やパン喰い競争の体験にとどまっていないことは理解していただけるでしょうか。)
はづき(小6)は編みものをするといって裏の竹やぶへ行ってノコギリで竹を切ってきた。そして、ナタとナイフを駆使して編み棒をつくり始めた。一事が万事。なんたるスローライフ! 比較や競争でなく存在そのものが認められ、自分の気持ちを大切に汲み取ってもらった子どもは自分に自信をもち、しかも自然や達人、農業や労働で足ることを知り、抑制がきく。学ぶ意欲と創造力、コミュニケーションの能力の高い彼らが次々と中学、高校、そして社会へとすすむ。僕はそこに光を見ているし、産業社会の向こうの扉、非暴力で共生、元気で平和な社会への道標だと思っている。

【6】P. C. A. パーソン・センタード・アプローチとの出会い
 僕がこのような考えをもつに至るきっかけは、カール・ロジャーズの唱えるP. C. A.(パーソン・センタード・アプローチ)をベースにしたカウンセリンググループによるところが大きい。大学時代、始めて参加したカウンセリンググループ。僕のカウンセリングの師であり、そのグループの世話人だった、西光義敬先生(仏教カウンセリング)は「どうぞ、ご自由にお始め下さい」と言ったきり黙然した。これには驚いた。指導者たるもの教え、導いてくれるものと思いこんでいたからだ。まして元来、世話好き、祭り好きの僕。この「待つ」態度に目がテンになり、それはやがて「目からウロコ」になったのだ。西光先生はただ漫然と待っているだけではない。沈黙も含め、メンバーの気持ちひとつひとつに丁寧に寄り添い耳を傾けてくれる。また、先生の中で湧き起こる気持ちも正直に語ってくれる。他人の気持ちにも自分の気持ちにも耳を澄ませ、決して否定したり、諭したりして、今の僕を変えようとしない人。そんな人に僕は始めて出会った。知らず、知らず、グループは、今ここの気持ちを語り、聞きあう受容的で促進的な雰囲気になり、僕も誰からも強制されることなく心が開いていた。人は共感的な態度で気持ちを理解してもらう時、アドバイスや動機づけなどなくとも、かくも成長し適応することをここで身をもって学び、回を重ねるごとに確信していったと言える。加えてさまざまな問題を抱えた方々がグループの中でゆるやかに、時に瞬時に自分を取り戻し甦る。その場を共にいられる感動は筆舌につくしがたいものだった。「何と生命とは健やかなものか。」その感動こそが、僕の中にもP. C. A.の態度を育み、P. C. A.の理念に基づいた個人やグループのカウンセリング、自然体験活動(沖縄無人島キャンプ等フリーキャンプ)、学校、幼稚園(フリースクール)を開くことへと僕を運んでいったのだった。本誌、日本トランスパーソナル学会との出会いももちろん運ばれていった先のひとつである。

 特に、フリースクールは自然体験活動の実践、カウンセリング、農業、環境問題への住民運動等がひとつになったとりくみだ。そこでは親たちに「一緒に学校をつくりませんか。」と参画を呼びかける。「TOECフリースクールはすばらしい」と学校に代わる新たなベルトコンベアーよろしく丸投げされるものではないと考えるからだ。自由は与えられても自由になるわけではない。フリースクールは単に枠組みがゆるいという意味ではなく自由になってゆくところ、自由の道場だ。サービスの代価としての学費ではなく、ここに出資してもらう消費型からつくり手へ。大人こそが共にゆらぎながら自分になってゆく場。フリースクールはそのための挑戦であり、実験。ささやかだけど確かに実践されている取り組みであり、模索なのだ。

NPO法人 自然スクールTOEC
URL:http://www.ne.jp/asahi/outdoor/toec/