自著紹介:『カウンセラーへの長い旅:四十歳からのアメリカ留学』

自著紹介
カウンセラーへの長い旅:四十歳からのアメリカ留学』(コスモスライブラリー)

向後 善之
日本トランスパーソナル学会 常任理事・事務局長
ハートコンシェルジュ カウンセラー

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6月末に新著を出しました。『カウンセラーへの長い旅』という本で、コスモスライブラリーから出版されています。

私が留学していたCIIS(カリフォルニア統合学大学院)の授業風景や、卒業後のインターン・カウンセラーとしての経験などを中心に、海外での生活での七転八倒を書いています。

お金をためて、40歳でそれまで勤めていた石油会社を退職して留学したのですが、アメリカでの学生生活は、順風満帆というわけには行かず、山あり谷ありで、今思い出してみると綱渡りの連続でした。

でも、そのおかげで、それまでの人生とは180°変わる文化の中で、さまざまな人たちと知りあうことができ、自分としてはかけがえのない経験だったと思います。

日本を立ったのは、早いもので、もう12年も前のことになります。

留学直前は、不安もありましたが、初めての海外生活を考えると、期待に胸が膨らみ、うきうきした気分にもなっていたものです。

『地球の歩き方』などのガイドブックを買ってきた妻は、「サン・フランシスコは、世界で一番美しい街って書いてあるよ」などと、目を輝かせておりました。私は私で、「カリフォルニア・サンシャインだぜぃ!」と盛り上がっておりました。

成田から10時間あまりのフライトでサン・フランシスコにつくと……、雨だったんです。今から考えれば、カリフォルニア・サンシャインというのは、ロサンゼルスあたりのことを言うのであって、サン・フランシスコは、霧の街です。サンシャインじゃないんです。

空港についた私達は、気を取り直して、タクシーで宿泊先の「ホテル・カリフォルニアン」に向かいました。

「ホテル・カリフォルニアン」は、私が選びました。あのイーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」を思い起こさせたからです。イーグルスのレコードのジャケットのようなホテルほどではなくても、きっと快適なホテルに違いないと、勝手に思い込んでおりました。

タクシーがサン・フランシスコ市内に入ると、その日は、何かパレードがあったみたいで、あちこちが通行止めで、ドライバーは、裏道をくねくねと運転しはじめました。その時、私達を乗せたタクシーが走っていたのは、テンダロイン地区と呼ばれる区域でした。

テンダロイン地区は、観光客でにぎわうユニオンスクエア前のゲーリーという通りの南側の地区で、サン・フランシスコで最も危険な地区のひとつと言われていますが、当時の私達は、そんなことを知りもしませんでした。

街は、うすぎたなく、道路にはあちこちにゴミが落ちており、いかにもあやしそうな男たちがたむろしていました。また、ジャンキーなのでしょう、完全にラリッたおじさんがふらふらと歩いていたりしました。

不安になったのか、妻は、「これが、世界で一番美しい街なの???」と、私に聞いてきました。私は、ここは、妻を不安にさせちゃいけないと思い、「まあ、この辺はきたないけど、ホテルのあたりはきれいだよ」などと根拠のないことを言ったのですが、私の淡い期待は、すぐに裏切られることになりましいた。

「ホテル・カリフォルニアン」は、なんとそのテンダロイン地区の端っこ、かろうじて、安全地区との境目にありました。

そして、そこは、名前から想像される印象とは程遠いかなりうらぶれたホテルでした。「ン」がついているだけでしたが、イーグルスのジャケットに出ていたホテルとは、えらい違いでした。当たり前です。なにしろ、宿泊費が安かったのですから。

初日、夜になると、美しい夜景などは見えませんでした。なんだか暗い街並みが見えるだけでした。これも、当然です。なにしろ、私達の泊まった部屋は、あのテンダロイン地区の方を向いていたわけですから……。

私達が、寝ようとした時、外から「パン、パン」という音と、「わーっ」という人の声が聞こえました。妻は、不安そうに、「何の音?」と言います。私は、とっさに、「ああ、この辺は、中国系の人が多いからね、爆竹の音だよ」とごまかしました。たぶん違う音だったのだと思います。なにしろ、毎週のように殺傷事件のあるような地区でしたから……。

それから、私達は1週間そのホテル・カリフォルニアンに滞在し、銀行の口座を開設し、サン・フランシスコの隣のデイリー・シティーに手ごろなアパートを見つけ、家財道具を買い、私達の4年半におよぶ波乱万丈の留学生活がスタートしました。

その後のことは、『カウンセラーへの長い旅』をお読みいただけたら幸いです。