おじんカウンセラーのトホホ通信 その7 天才への道は、はてしなく遠い
【その7】天才への道は、はてしなく遠い
最近サイエンス・ジャーナリストのサイモン・シンの宇宙創成という天動説から最新のビッグバン理論までの宇宙論の歴史と科学者たちの奮闘を描いた本を読みました。元理系の私としては、ワクワクする内容でした。私が、こうした科学物の本を最も読んだのは、高校時代でした。
私の高校時代、物理の期末試験かなんかで、「銀河系の中心がブラックホールかどうか判定せよ」という問題が出たことがありました。おもしろかったですねぇー。条件さえ設定すれば、高校生の物理の知識でも銀河系の中心がブラックホールかどうか推定できます。当時は、こうした問題を解くことに好奇心がかきたてられたものでした。その頃、物理学って面白いって思い、わからないながらも、当時たくさん出ていたブルーバックスの相対性理論や量子力学関連の本を読みました。大胆にも、「将来は物理の研究者をめざそう!」なんて考えたこともありました。
でも、受験勉強が始まったら、とたんに熱がさめてしまったんですよね。こーゆう問題には、この解き方というのをできるだけ覚えるのが受験勉強になってしまいましたから、なんだか、頭の使う部分が違ってしまったように思えました。興味が募るどころか、すっかり物理の勉強がつまらなくなってしまいました。
受験勉強じゃノーベル賞の発想は生まれないだろうなと思います。今回受賞したみなさんは、いずれも年配の方々なのですが、受験勉強が定型化してきた世代からノーベル賞受賞者が生まれるのかどうか心配になってしまいます。
実は、私は、子供のころ天才的な発見にあと一歩というところまでいったことがあります(←冗談ですよ)。
その一歩は、しかし、はてしなく遠いものでした。
小学校の時、私は、電車の一番前に乗って、運転手さんを見ているのが好きで、スピードメーターの数字が上がり、時速80キロなんてなると、興奮したものでした。
確か小学校の低学年の時だったと思いますが、運転席を見ているとき、私は、画期的なことを思いつきました。今、時速60キロで電車が走っているのだから、この場でひょいと飛びあがったら、時速60キロで、後ろの方に移動することになるのではないかと思い付いたのです。もし、そうなら、電車の中だったら、私は、宙を鉄腕アトムのように飛ぶことができるはずです。私は、その思いつきに興奮し、その時いっしょにいたU君に、「いっしょに飛ぼうぜ!」と提案しました。U君も私の発見に大興奮です。
さっそく、私たちは、ピョンと飛び上がりました。しかし、なぜか元の位置に降りてきてしまいます。「きっと飛び方が違うんだ!」などと騒ぎながら、私たちは、何度も何度も飛び上がったのですが、結果は、同じです。「えー、何でだろう?」、「おかしいな?」などと首をかしげていたのですが、そのうちに、U君も私も、他のことに注意が向いてしまって、私たちは、偉大なる空中飛翔実験は、どこかにいってしまいました。
いやー、おしかった!
ひょっとしたら、ニュートンさんも同じようなことやったかもしれませんね。しかし、彼の場合、その疑問を持ち続け、その結果として「慣性の法則」を発見したわけです。
おそらく、子供のころに私と同じような実験をしたことのある人は、山ほどいるはずです。天才は、そこより、もう一歩踏み出すわけですね。その一歩が、はてしなく遠いんだろうな・・・。
たぶん天才と言われる人たちは、疑問が生じたとき、その疑問に対し誠実に対応するのでしょうね。私のような凡人は、疑問に安直に答えを出そうとします。せっかく慣性の法則のヒントが見えたというのに、「きっと飛び方が悪いんだ」なんて理由をつけて簡単に納得しちゃうわけです。彼ら天才は、自分の予測と違うことが起こると、その事実の方を大事にして、改善点を既成の理論の方に求めます。しかし、私たち凡人は、理論の方を大事にしがちで、「違い」という事実には、目をつぶってしまいます。
そして、天才は、簡単には納得しません。あくまで、疑問は疑問として残しておいて、あれやこれや考えるわけです。天才には、そうしたしぶとさがあるのでしょうね。
そして、私の「きっと飛び方が悪いんだ」という考えは、現状の常識の範囲を乗り越えない考えです。天才は、常識にしばられず、その壁を乗り越える勇気を持ちます。だから、「光の速度はどこでも一定だ」という観測結果から、アインシュタインは、「時間が変化する」という仮説にたどり着き、相対性理論を完成させたのでしょう。
そして、ひょっとしたら、彼ら天才の周りには、ほんの少数でも、彼らの発想を面白がる人がいたんじゃないかなと思います。人が気付かないことに気付いたら、「それは、面白いね」って言ってくれた人がいたかもしれません。
その逆に、「君がそんなことを言うのは、10年早い、もっと勉強してから意見を言いなさい」とか、「そんな考えは、もうすでに●@%博士が提案している。もう古いよ」なんて言われたら、せっかくの天才の芽をつみとることになってしまうかもしれませんね。そうした意味で、「10年早い」って言葉は、死語にしちゃった方がいいと思います。
これまで、カウンセリングの場だけではなく、何人もの不登校の人や、ひきこもりの人や定職についていないフリーターの人たちに会ってきました。彼らの中に、とてもユニークな考えを持っている人たちがいます。
哲学書を読みあさっていて、自分なりの哲学理論を持っている人、自分の内面に対する深い洞察がある人などなど、数学の理論の勉強を独学でしている人など、たくさんの才能があります。
たぶん、欧米であれば、彼らの才能を見つけ、育てるようなシステムがある程度整っているのではないかと思います。ビューティフルマインドのモデルとなった数学者でノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュ博士などは、如才なく人付き合いできるタイプではとてもなさそうですし、大学でも自分の興味に没頭して、ろくに授業に参加しなかった人です。でも、彼が書いた論文が教授に認められ、それが、彼が世に出るきっかけとなりました。
実際、例えば、アメリカでは、過去の実績とか出身校とかは関係なく、その人が今やっていること(例えば論文)に焦点をあてて、偏見なく評価する文化があります。私はアメリカのJournal of Humanistic Psychologyという心理学の雑誌に論文を投稿したことがあるのですが、そのとき私は、大学院を修了したばかりの、まったくのペーペーでした。それなのに、編集者や審査委員は、ちゃんと読んでくれていて、しかも、いきなり学会誌に載せてくれたんです。こうした、だれにも公平にチャンスを与えるアメリカのシステムには、感動しました。
どうも日本では、なんらかのお墨付きがないとなにも認められないってところがあります。どんなに独創的なアイデアも、なんらかのタイトルがないと、まったく無視されてしまいます。「グローバル化した今の世界では、ダイバーシティーが大事です」なんて言葉をよく聞きますが、実態は、ちっとも多様性を認めてないような気がします・・。
世の常識からちょっとでもはずれた場合、発言権がなくなってしまう感じがします。外れた中に面白いものが隠れているかもしれないのに・・。
これは、実にもったいない話だと思います。
向後善之
日本トランスパーソナル学会 事務局長
ハートコンシェルジュ カウンセラー