おじんカウンセラーのトホホ通信 その6 みんな同じ?

【その6】みんな同じ?

私は、生来不器用なため、球技が苦手です。ゴルフとボーリングのスコアがほとんど同じといったなさけなさで、バスケットボールは、50肩もあいまってちっともシュートが入らず、バレーボールのアタックは成功したためしがありませんし、野球で私が守備に付いた時には、ゴロはご法度です。

こんな私でも、小さい頃からひとつだけ得意なものがありました。徒競走です。と、言っても、学校の代表になるなんてレベルではなく、クラスで10番以内に入る程度のものでした。小学校の頃、運動会の前には、少しでも速く走れるように毎日猛練習したものです。初めて徒競走で1等になり、ゴールの横で先生から左の胸に1等賞と書かれたリボンをつけてもらった時は、うれしかったですねぇー。私は、お調子者ですから、「将来オリンピックに出て金メダルをとる」などとのたまわっていたようです。

 

ところが、アメリカから帰国した2001年にある方から信じられない事を聞きました。その方のお子さんの小学校では、「徒競走で1等になってもなにも表彰しない」のだそうです。その理由を伺うと、「きっと、足の遅い子が劣等感を抱くからだと思います」とのことでした。学校によっては、徒競走はするけれども、1位の子は、そのままテープを切ってはいけないのだそうで、ゴールの前まできたら駆け足足踏みをして、ビリの子がゴール前にたどり着いたところで、みんなで手をつないで、そこではじめてテープを切るなんてことをしている学校もあるのだそうです。なんともめんどくさい・・。2~3年前に週刊誌で、運動会から徒競走がなくなってしまった学校もたくさんあるなんて記事を読みました。徒競走のかわりにやっているのが、「お楽しみ走」という競技?なのだそうで、その「お楽しみ走」とは、要は、借り物競走のことなんですね。これだと、走る能力の差が見えないからいいのだそうですが・・。今でも、こんなことやっているのかな???

 

また、他のお母さんから、「最近の学芸会には、何人もの主役がいる」とのお話も聞きました。つまり、ひとつの主役をシーン毎に何人もの子供がいれかわりたちかわり演じるのだそうです。白雪姫が3人とか、浦島太郎が5人なんて例もあるようです。ちなみに、私が教えていた大学の学生に聞いたところ、多くの学校が、主役複数制の学芸会をやっていたとのことでした。中には、「私達は、クラスの女子全員が白雪姫をやりました」などと言う学生までいました。こうした美しき平等主義は、どうやら一部の学校だけではなく、全国的に広がっているようですね。

 

平等主義は、あまりに美しくて気持ちが悪くなります。徒競走で一等になろうがなるまいが、学芸会で主役になろうがなるまいが、それは、単に、その子の一側面であります。なんで、そんなにこだわるんですかねぇ?

足が遅かったり、主役になりたかったけど、なれなかったりすれば、そりゃーくやしいでしょう。でも、その「くやしがる権利」を奪っちゃいけないと思います。

 

このような行き過ぎた平等主義は、ここ20~30年の間に急速に広まっていったようです。そして、その中で育ってきた人たちは、不安から表面上守られてきました。しかし、その反面、自分にとって苦しい状況に直面し、自分自身をありのまま受け入れ、そして、その状況を乗り越えることにより自尊心を得るチャンスを奪われてきたと言えます。

 

本来「平等」という言葉は、あくまで「同じプラットホームに乗る権利」に関する公平性のことだと思うのですが、日本に「平等」という言葉が輸入されたときには、「アウトプットの平等」になってしまったのでしょうかねぇ。そもそも、「アウトプット」が平等になるわけがないんです。

私は、声を大にして言いたい!

「人生は、そもそも不平等なものだ!」と。

 

その不平等なものを全部同じようにしようとすると、さまざまなゆがみが出てきます。元々同じじゃないんですから、無理が生じてきて当然です。

 

この美しき平等主義に伴う「みんな同じ」という価値観は、実は、その価値観からはずれたひとたちを排斥していく傾向を作りだします。近年、より陰湿化しているいじめなんかは、その表れです。同じでないと言われることに不安を感じ始めると、自分たちが同じであることを、これでもかって感じで確認し合うようになります。以前勤めていた大学では、「同じグループの学生は、同じタレントを好きになり、同じファッションに身を包み、同じ選択科目を履修し、同じ時間にトイレに行く」なんてことを学生から聞きました。そうしないと、「ハブにされる」って、その学生は言います。「ハブにする」というのは、「グループから省く」という意味で、要するに村八分です。

 

グループ内の見えないルールにちょっとでも反する人は、「みんなと同じ」じゃないということで、いじめの対象になってしまうということが頻繁に起こります。例えば、風邪をひいたために、いっしょにディズニーランドに行けなくなっただけで、いじめの対象になった学生もいました。ひとりがスケープゴートになることによって、残った人たちは、「自分は、少なくとも『違う子』ではなかった」と、つかの間の安心感を得るのでしょう。しかし、嫌な悪循環ですね。

 

このような「みんな同じ的いじめ体質」は、子供のいじめの世界だけでなく、日本の世の中全般に広がっているように思えます。

 

「みんな平等だよ」と言いながら、学歴によるランキングは歴然と存在するし、異文化に対する不寛容な姿勢は、いたるところで見受けられます。まさに、世の中全体がダブルバインドになっている状態なのではないかと思います。

 

「トホホ通信」の第4、5号のテーマは、要約すれば「変わっていることは面白い」でした。

しかし、どうも今の世の中、変わっていると生きにくい・・。

(第6回おわり)

 

向後善之

日本トランスパーソナル学会 事務局長

ハートコンシェルジュ カウンセラー