わたしを変えた3冊(上嶋 洋一)

1)高橋和己 『邪宗門(上・下)』河出書房 1966年
2)エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 東京創元社 1951年
3)上田 薫『人間形成の論理上田薫著作集 第2巻)』 黎明書房 1964年

 3冊とも、私が大学に入ったその年(1971年)に読み、その後何度も何度も読み返してきた本である。私が入学した時代は、日本に学生運動が存在した最後の時代であった。ベトナム反戦運動、沖縄返還協定反対闘争、筑波大学法案反対闘争、三里塚闘争、浅間山荘事件を初めとして、まだまだ騒然としていた。最低限の、受験に関係する限りでの読書と社会的関心しか持たなかった私には、様々な思想の渦巻く大学という空間は衝撃であった。

『このままの自分ではいけない、なんとかしなくては!』…この3冊の書名を見るだけで、当時の自分自身の心の焦りが思い出されてくる。

邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)

 『邪宗門』は、大学に入って最初に読んだ小説。読み終えて間もなく、1971年5月3日、高橋和己は亡くなった。その衝撃は大きかった。年譜を調べてみると、私の生まれた家のすぐ近くの団地に暮らしていた時期もあったことを知った。こんなすごい人が身近にいたのだということを知り、うれしくもあったし、高橋の世界にのめりこんでいくきっかけにもなった。

 『邪宗門』の発想の発端は、「すべての宗教が、その登場のはじめに色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった」(『邪宗門』「あとがき」より)と高橋はいう。そしてこの「思考実験」は実に見事な実を結んだ。それは小説としても、高橋自身の生き方としても。彼は次のような言葉で「あとがき」を結んでいる。「人が生涯に書きうる作品の数にはかぎりがある。また人生の年輪にふさわしい時期時期の作品のあり方もあろう。従来蓄積してきたもののほとんどすべてを投入したこの作品は恐らく私の人生、そして文学の歩みに一つの区切りを劃するものとなるであろう。それゆえに私は今後何らかの方向に転進せねばならないが、いまいささかの感慨に沈む自分を許したい」と。ここには、限りある人生の中で、自分の持てるものすべてを出し尽くした後の深い虚脱感と、その道を辿ることのできた人にしか味わえない恍惚感、高揚感、満足感、がある。物語は、何ともいえない無力感を味わわされる形で終る。しかし、私自身が苦境に立たされた時に限ってこの悲劇的な物語を、また読んでみたくなる。それは、物語それ自体の悲劇性にもかかわらず、みずからのすべてを投入しこの物語を書き終えた、高橋の恍惚感、高揚感を追体験できるがゆえに読み続けている、ということなのかもしれない。

自由からの逃走 新版

 『自由からの逃走』は、大学に入って最初に読んだ研究書。この『自由からの逃走』に関しては次のような紹介文を書いたことがある。“本書が刊行されたのは1941年。時まさに第二次世界大戦の最中で、ナチスがヨーロッパ全土を支配しようとしていた時代である。このファシズムの嵐の中で、フロムは数百万にものぼる人々が、大切な価値と信じられてきた自由を求める代わりに、みずからの自由を捨て、自由から逃れようとしている現実に直面する。本書においてフロムは、この「自由からの逃走」のメカニズムを解明しようとした。フロムによれば、近代人は様々な伝統的権威からは自由になった。しかし、個人に「~すべし」と命じていた伝統的権威からの解放(「~からの自由」)は、同時に人びとを不安で孤独な存在にしてしまった。この孤立化した人間の不安定性こそ「自由からの逃走」の基礎的条件である。つまり近代人は「~からの自由」がもたらした不安や孤独を克服できる程には自由ではなく、それゆえ個人的自我の実現という、より積極的な意味での自由(「~への自由」)を追求する代りに、自由から逃れ、指導者に服従することによって不安と孤独から逃れようとした、とフロムは主張する”(國分康孝監修『カウンセリング辞典』誠信書房)と。

 この、『自由からの逃走』の中に描き出されている近代人の心のメカニズムは、高校時代の私の姿そのものであるように思えた。あちこちで起こっていた高校紛争を横目に見ながら、権威が承認した枠内での自由に安住していた自分自身の不甲斐なさ。『大学に入った今、より積極的な自由、「~への自由」を追求していく必要がある』と痛切に思った。本書は、私にとって自分自身の探求すべき方向へ歩き始めた(遅ればせながらの)「最初の第一歩」であった。

  『人間形成の論理上田薫著作集 第2巻)』、というか、この著者上田薫先生の存在は、私自身のものの見方をひっくり返してもらったという意味で私にとっては大きい。300人近い大教室での講義。一番前の席には内地留学で来られた先生たちが何人か座っておられた。机の上には、当時出たばかりの小型のカセットテープレコーダーが置かれていた。静かに淡々と語られる「動的相対論」「ずれによる創造」「絶対からの自由」…今でもあの教室の雰囲気が懐かしく思い出される。静かな語り口ではあったが、その考え方は、当時の私をひっくり返してしまうほどインパクトの強いものであった。

 当時の私は「完全」ということにこだわっていた。目指す成績は「オール5」。それはいわゆる主要5教科だけではなくスポーツにおいても、芸術科目においても、家庭科においても、そしてケンカにおいても。しかし上田先生はおっしゃる。「君は野球をやっていたそうだが、『完全試合』といっても、あれは9回の間、一人のランナーも出さなければそう呼ばれる。『9回』が『10回』に変われば、どうなる? 『27人全員三振に取らなければ完全とは言えない』という人もいる。江夏なら『いや、そうではない。27球で試合を終らせることだ』と言う。つまり『完全』というのは、人間が恣意的に決めたルールの枠内でしか成立しないものだ。なぜそのようなものにこだわるのか」と。ただし「完全」とは恣意的なものであるが、その恣意的な「完全」にも意味がある。「完全」を目指して努力した者だけが「完全」の本当の意味を知る。つまり、本気で「完全」を目指した者だけが、「不完全から完全に至る」のではなく、「不完全から、より深い意味での不完全に至る」という事実を知るのだ、と。「絶対に勝つ!」と、勝ちにこだわって必死に努力し挑んだ試合。双方が必死でぶつかり合う。その中で、『あぁこの試合なら、勝とうが負けようが、どうでもいい』と思えた瞬間の恍惚感を思い出した。最初から「勝ち負けなんて二の次だ」と思っていたらたどり着けない境地だったと、今でも思う。上田先生の話は、抽象的な話ではあったが、いつも具体的な何かを思い浮かべることができた。

(千葉商科大学学生相談室相談員 上嶋 洋一)

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