書評:存在することのシンプルな感覚

書評:存在することのシンプルな感覚 (ケン ウィルバー ,春秋社)
小林 真行(本学会常任理事)

存在することのシンプルな感覚

ケン・ウィルバーという人について何がしかの説明を試みようとする時に、まず頭に浮かんでくるのは、彼がこれまでに提示してきた一連の意識モデルである。それはたとえば、アイデンティティの収縮・拡大という観点からの『意識のスペクトル』モデルであり、発達心理学を応用した『アートマン・プロジェクト』のモデルであり、また、『進化の構造』で示された四象限の図であったりするのだが、このようなモデルは便利である反面、ウィルバーのものを読んでいる最中に感じる「何か」を伝えるにはあまりにも簡約化され過ぎており、どうにももどかしい感じをぬぐえない。ウィルバーの本当に面白いところは理論モデルの部分だけを抜き取ってきても説明できない、理論を含め、読むという行為に没頭しているうちにハッとさせられるような何かがあるのだ、と薄々感じてはいても、それをどのように言語化したらよいのかがわからず、結局、理論モデルの説明に終始したり、単純に「どれでもいいから一冊を終わりまで全部読んでみて下さい」としか言えなかったりと、そんな経験が何度かある。

本書『存在することのシンプルな感覚』は、これまでに出版されてきたウィルバーの著作の中から、理論的な側面ではなく、むしろ、ウィルバー自身の体験的・実践的な文章を中心にして抜粋・編集されたものである。ここに収められているのは、彼が提示してきたいくつもの理論モデルの背景にある、彼自身の日々のあり方を反映した生の声であり、もっと言えば、彼自身が立っている深みから発せられた率直な視点である。言葉を替えれば、それは、「今、ここ」に現前している「スピリット」からの視点である。ある時には数行の、またある時には数十ページにも渡る選りすぐりの文章を読み進めていく中で、読者は、「スピリット」とはどこか遠く離れたところにある到達すべき何かではなく、常にすでに、自らの内にも外にも存在するものであるという静かな直観へと導かれていく。

ウィルバーという人物に対するイメージは様々だと思うが、一般的には、論理的・理知的な理論家というものであったり、あるいは包括的な統合理論の構築を目指す野心家というものであったりと、「知」を中心としたイメージが強いと思われる。本書では、そうした側面には敢えて焦点を絞らず、それ以外の、一求道者としての彼が常に他者と分かち合おうとしてきた、より体感的な風景に比重を置いている。また、ウィルバーの個人的・自伝的な回想(『グレース&グリット』『ワン・テイスト』)からの文章や、これまで未訳であるエッセイや小説、別の作者の著作に対する序文といった目新しい文章も含まれており、相対的かつ具体的なこの現実世界に対し、彼がどのような感性をもって向き合っているのかをうかがい知ることができる。書名にある通り、この本は「感覚」を立脚点にして編まれているのである。

現在までのところ、英語原書での全集「ケン・ウィルバー集成」は、全八巻が刊行されているが、彼の執筆の勢いはまだまだ衰えを知らず、今日までに邦訳されてきたものでも、編著を含めるとすでに15冊を超える。が、ウィルバーという人の旺盛な「知」を支えているのは、何よりもまず、禅仏教を始めとする修練の実践であり、本書では、そうした実践の中から立ち上ってきた直截的・瞑想的な文章が多数収められている。

始まりと終わりを伴う変性意識状態や人目を惹く特殊な体験、無限に拡大する意識の諸階層などを追い求める行為自体は、ウィルバーの主眼ではない。彼のポイントは、むしろ、日常の喜怒哀楽を含め、それら移り変わりゆく様々な状態の基底にある中心点を指し示すことにある。少しずつゆっくりと読み進めながら、その「一味(ワン・テイスト)」を染み込ませるようにして味わっていくのも良いかもしれない。訳者も「あとがき」で述べている通り、この本はウィルバーの「良いところ」「聞きどころ」という、いわばエッセンスを集めたものといえるので、そうした意味でもお薦めできる。

ウィルバーの卓越した知性は、これまでの著作において、時折り、辛辣な批判として表れることもあった。それらの批判は、概ね「行き過ぎ」やある種の「浅薄さ」に対して向けられたもので、もっともなものである場合が多いが、もし、こうした批判が、自分を高みに置くことによって出てきたものであれば、いかに正しいことを言っていても、心に響くものとはなり得ないだろう。ところで、ウィルバーはまた、なかなかのユーモアのセンスを持ち合わせている。例えば、以下のような具合である。

「わたしの批判は、常にどのような領域においても、その核となる信条に向けられている。それは、その特定の分野における真実だけが唯一の真実であるというものである。この点においては、わたしはやや厳格であったかもしれない。しかし、どの領域も本質的には真実の断片を含んでいるが、それはあくまで部分的であるというのが、わたしの信条である。さて、いつの日かわたしの墓に、誰かがこう刻んでくれたら、本望である。「彼は正しかった。しかし、あくまで部分的であった」と」(本書、p.309)

ウィルバーの著作において唐突に出現するこのような何気ない笑いの中に、彼が信頼に値する人であることの根拠を見る思いがする。