特別寄稿「個人的体験から見た東日本大震災」

特別寄稿
「個人的体験から見た東日本大震災」
佐伯 里花

 この原稿を書き始める少し前、岩手県警が3月11日にヘリコプターから撮影した地震30分後の岩手県沿岸部(大船渡市から陸前高田市にかけて)の映像を公開した。それはおよそ30分にも及ぶもので、津波が海から押し寄せ町を一呑みにしていく様子、そしてその後の町の状況を克明に記録した内容だった。10ヶ月たった今でも、私の暮らしていた町が壊れていく映像を観るのは胸が押しつぶされるように苦しく辛かった。

 私は結婚の2年後、夫の実家がある陸前高田市で暮らす為に盛岡市から2才になる長女を連れて引っ越した。ここでは後に産まれた子供4人を含め義母と8人で、離婚するまでの13年間を過ごした。陸前高田市は当時でも人口が2万をちょっと越えるくらいの「市」と呼ぶのも申し訳ないような小さな町で、特に大きな漁港があるわけでもなく、水産加工の大きな工場がある訳でもない貧しい町だった。町の人達は昔から商売や養殖などを営みながら、ずっとその土地に住み続けてきた人達が大半で、親戚縁者で固められているようなところだった。内陸から嫁いだ私にとって、その土地の風習や文化が異質に感じられ、面食らうことも随分あった。そこに暮らす人達には他の文化をなかなか受け入れようとはしない頑なさと、運命共同体とも言えるような独特の連帯感で結ばれている感じがあった。 

元々東北と言う土地は、閉鎖的で厳しさを善しとするようなところがあるが、そういった一面と、じっと耐えている分、年に一度の大きな祭り「動く七夕」「けんか七夕」などで一気に発散する大きなエネルギーを感じさせるようなところがある。

そして海……。今回津波が押し寄せた高田松原は全長3キロにも及ぶ砂浜で、その海岸線には防風林として何本もの松が植えられていた。夏の暑さの中にあってもその松林に入るとひんやりとし、県内外の人達の憩いの場所となっていた。しかし、あの砂浜に植えられていた松は今はもう1本しか残っていない。松どころか建物が一つも無い。あるのは廃墟ばかりだ。そしてつい最近、なんとか残ったそのたった1本の松さえも保存を断念したとの発表があった。 

地震が起きた時、私は大学への進学のために春から一人暮らしを始める娘と一緒に仙台駅近くで新生活用品の買い物をしていた。突然、今まで感じたことのないような大きな揺れが襲い、かなり長く続いた。揺れている途中で電気が突然切れ、陳列棚の品物が次々と落ちてくる。立っていることも出来ず、うずくまっている子供に私が覆いかぶさり、その私の上に店員が覆いかぶさり揺れが収まるのをじっと待った。揺れが収まり店舗から外へ出た私たちが目にしたのは、商店街があるアーケードの中に、様々な店舗から逃げてきた人達が右往左往しながら混乱している様子だった。その後、仙台駅へと向かったが、すでに駅は封鎖され、沢山の人々が外へと逃げ出てきていた。

交通機関が麻痺していると判断した私たちは、家までの道のりを40分程かけて歩いて帰った。途中、水の漏れているビルや塀が壊れている家などを多く目にしたが、阪神淡路大震災の時のように崩壊している建物を観ることもなく、「割にたいした被害はないね。」などと呑気に話しながら自宅へと向かった。しかし、本当の恐ろしい事態はこことは別の場所で起きていたのだった。

自宅は全てのライフラインが途絶えたため、マンションの役員の方から避難所に向かうようにと促され、雪が吹き付ける中を近くの小学校へと向かった。ガソリンを燃料とした少ない灯りを頼りに冷たい床に横になり、掛ける毛布もない中、何度も襲ってくる余震に怯えながら寒く長い夜を過ごした。携帯はまったく繋がらず、世界中から忘れられてしまったような、時間も止まってしまっているかのような不思議な感覚だった。ラジオから聞こえた「若林区の荒浜で200~300人の遺体を確認」という情報を耳にした時でさえ、そこに現実感は無く、まるで遠い外国で何かが起きたかのような遠い感覚しか無かった。

地震の翌日から少しずつ部屋を片付け始め、とりあえず何かを口にした。水を汲むために並び、食料がありそうな所に出かけては長い行列の中で順番を待った。この頃からメールも届くようになり、東京に住む娘からの情報で、じつは沿岸部でかなり大きな被害が出ていることが分かった。自分たちが昔住んでいたところも津波で流されたと知らされたが、目の前の現実に向き合う事に精一杯で、私の頭には殆ど入ってこなかった。原発の危険についてのメールも友達からもらったが、それも私にとっては現実とはつながらないものでしかなかった。

3日目になり、ようやく電気がつながって初めて、今起きていることが現実となって私の目の前に突きつけられた。テレビから流れる映像は衝撃的で、俄には信じられなかった。

“私の住んでいた町が全て流されている……。”

 5人いる子供達は、ようやくつながったネットで高田に住む父親の安否確認を始めたが情報は錯綜し、なかなか確認が取れなかった。今日一日を送ることと、父親の安否を確認することの毎日だけが過ぎていった。

 離婚した時には憎しみでいっぱいだったのに、なぜか色々な想いが駆け巡り、夜になると涙が溢れて止まらなかった。父親を否定しながら生きてきた娘も、少しでも情報を得る為に必死にパソコンにかじりついていた。携帯がなかなか通じないため、岩手県の警察に電話しようと公衆電話の順番を待つ長い列にも並んだ。

 こんな不安な日々が1週間程続いた後、彼だと思われる遺体が上がったと連絡が入り、その後親戚からはっきりと確認が取れたという事で、子どもたちを連れ高田に行くことになった。関東にいる2人の娘は、飛行機で秋田まで行き、そこから新幹線で盛岡に向かい仙台からバスで向かった私達と合流した。

次の日の朝早く、私達は盛岡駅から陸前高田行きのバスに乗った。駅前のロータリーは釜石や宮古など沿岸部へ向かう人達の行列があちこちにできていた。

バスに乗り込み2時間近くたった頃、ようやく高田の山あいの町に着いた。しかしそこはもう、私が知っている町では無かった。山側の町なのに川を遡上してきた津波のために町は跡形もなく消えてしまっていた。ガレキと呼ぶにはあまりにも悲しいたくさんの生活の痕が道路の両端に広がっていた。バスに乗っていた人達からは、ため息ともなんとも言えない声が漏れ、私は言葉も無いままにただ呆然と見つめている事しかできなかった。

市内に入り義母と話をした後、遺体安置所へと向かった。安置所となっている体育館には、青いビニールシートに包まれた多くの遺体が並んでいた。それらは、まだ棺にも入っていない遺体ばかりだった。幸いな事に、彼は確認が取れたということで別のプレハブに移され、棺にも入れてもらっていた。泥をきれいに拭かれたその顔を見た途端、私たちは声を上げて泣いた。何も考えられなかった。

それから2週間ほど経って火葬ができることになり、私たちはもう一度高田に向かった。ガレキ類の片付けが少し進んでいたが、なにも無い状態はそのまま変わっていなかった。火葬は午後6時からだったが、停電が続いているため、手に蝋燭や懐中電灯を持って行うことになった。子供たちと蝋燭の灯りの中荼毘にふされているのを待つ時間は、私たちにとってとても神聖で特別な時間だった……。

私の元夫は自営業を営んでいたが、そこにいた従業員も4人のうち3人が犠牲となった。この日、1人逃げることができた従業員は私を見つけると駆け寄ってきて、「すみません。本当にすみません。私だけが残ってしまい本当に申し訳ありません」と、泣きながら何度も何度も私に謝った。私は彼女の肩を抱き、「生きていてくれてありがとう。彼と最後まで一緒にいてくれてありがとう」と言うのが精一杯だった。ぎりぎりの所で助かった大切な命なのに、本当に怖い思いをしただろうに、それでもこんな風にしか言えない彼女が哀しく、同じような気持ちで今を生きている多くの人達を想い、胸が傷んだ。

義母は決して家のあった場所に行こうとせず、ボランティアの方たちが流された品々を展示してくれている場所にも見に行こうとはしなかった。高田に住んでいた私や娘たちの友達は何人もが亡くなったり、行方不明になったりしていた。町は町ではなく荒野となり、どこがどこなのかが全くわからなくなってしまっている。「元気だ」と知らせてくれた友人も、波に呑まれながらも必死で枝につかまり、なんとか助かるような大変な思いをしたのにもかかわらず、自分より壮絶な体験をしている人がたくさんいるからと、自分の身に起こった体験を誰にも話さなくなってしまったと言っていた。誰もが傷つき、疲れていた。

夏休みに訪れたとき、高田の菩提寺の本堂にはたくさんの遺骨が安置してあった。住職さんの奥さんは、いまでもたくさんの身元不明の遺骨が運び込まれてくると話していた。

この頃から義母はよく泣くようになってきていた。「みんな流されてしまった。なんにも残っていない。私が代わりに流されたらよかったのに……」私にはそんな義母の背中を抱き、話を聴くことくらいしかできなかった。

この時、高田では賛否両論はあったようだが、年に一度の祭りを決行することが決まり、「動く七夕」が縮小した形で行われた。私たちはその懐かしいお祭りを見ようと、近くの小学校まで出かけた。そこで私はなんとも言えないもの哀しい感じと、しかしそれに負けないくらいの大きなエネルギーに圧倒された。なぜかは分からないが、太鼓の音と笛の音、皆の掛け声とその熱気に触れている私の目には涙が浮かんだ。

そこには、命の大きなエネルギーの脈動が渦巻いていた。

私の仕事場である宮城県石巻市もまた、大きな被害に見舞われた場所だった。行政関係に勤めている友達は、家族が亡くなったり、行方不明になったりしていても休まず仕事をしている同僚がたくさんいると話していた。休日も返上して仕事を続け、勤務が終わった後でようやく水汲みに出かけ、食料を探しながら仕事をしていると言っていた。それでも窓口では住民から怒りをぶつけられるという中に在って心身ともに疲れていた。私がカウンセラーを務める大学の学生たちも、家を無くし、家族を亡くし、沢山の惨状を目の当たりにしながらも、さも何ごとも無かったかのように振る舞い、毎日を生きようとしていた。

時間が経つにつれ、報道では“復興”の文字だけが一人歩きするようになっていったが、被災地にいる私達の中では実感できることが少ない。報道の内容は、“いつまでも変わらない事への不安を感じたくない為の内容”でしかないように思える。いくら建物を建て直したり、新しい事業を立ち上げたりというような外側だけを固めていくような事だけをしていても、本当に大切な部分には届いてはいないと感じている。

被災地に本当に必要な事は何なのだろう……。生と死がほんの紙一重で別れるようなあの体験の後、ここに生きることを託された私たちに出来ることはなんなのだろう……。

震災から10ヶ月が過ぎて身体に症状が顕れ始めてきている人や抑うつ傾向にある人たちも多いが、以前からの東北の体質で未だに投薬だけの治療が多いと聞いている。先にも書いたが、元来“東北の人間”は、我慢強く忍耐強い。なかなかホンネを出すことも無く、感情もしまい込んでしまう傾向が強いことをも考慮にいれて観たときに、大きな不安がよぎるのは私だけではないはずだ。

私は、今回の震災は、まさに“死と再生のプロセス”だと捉えている。多くの人命が、自然が、社会が、組織が、体制が、そしてそれらを構成している“今を生きている私たち一人ひとり”が生と死に向き合っているのだという事を認識し、何を捨て、何を生み出していくのかを真剣に考える時に来ているのだと、いま、強く感じている。