おじんカウンセラーのとほほ通信 その46 被災地を訪ねて
10月23,24日に、仙台在住のカウンセラーでもあり友人でもある石垣美幸さん(トラパ東北支部)に案内していただき、宮城から岩手の被災地に行ってきました。トラパ中国支部のみなさん4人も一緒に被災地をまわってきました。
震災後半年以上経ち、被災地がどのような状態になっているのか知りたかったこともありますし、被災地にいらっしゃる方々の生の声をお聞きしたかったと言うこともありました。ただ、そんなことで被災地の方々のお時間を使わせてしまっては申し訳ないと思っていたところ、石垣さんが案内してくれると申し出てくれました。
彼女は、「他の地域の人と東北・被災地を結ぶことが、私の役割だと思っています」とおっしゃっていました。僕は、ありがたく石垣さんに案内をお願いすることにしました。
日程は2日間。東松島→南三陸町→陸前高田→気仙沼→気仙沼大島→石巻というコースになりました。福島にも行きたかったのですが、どうしても日程がつかず、今回は断念しました。
仙台駅で待ち合わせ、石垣さんの車で被災地に向かいました。松島を抜けて東松島に入ると、とたんに荒涼とした光景が現れました。一面の平地なのですが、そこには3月11日まではたくさんの建物が建っていたはずなのです。がれきがきれいに片づけられていたので、基礎がはっきり見えているため、そこに家が建っていたのがわかります。また、3月11日からそのままになっているのであろう船が、まだ浮いていました。それは、言葉を失う光景でした。
【東松島】
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次に向かったのが南三陸町です。ここも言葉を失うような光景でした。ビルには大きな穴が空き、ガードレールはひんまがり、地盤が沈下したため、橋げたぎりぎりまで水位があるという状態でした。津波が押し寄せてくる直前まで女性職員が避難を呼びかけた防災庁舎には、祭壇が設けられ、多数の花束がたむけられていました。歌津町も、陸前高田も、同じような状況でした。
【南三陸町】
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【歌津町】
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非常に残酷なのは、どこの町でも、たった1ブロック違うだけで、救われた家と、全て流されてしまった家があることです。また、波が襲ってくる方向によっても被害の度合いに差が出たようです。例えば松島と東松島では、圧倒的に東松島の方が被害が大きいのですが、これは、地形と、津波の方向によるものです。松島と東松島は、半島の西・東の関係にあります。津波が東の方から襲ってきたので、東松島は直接津波の被害を受け、松島は東松島と松島の各島々に守られたために被害が少なかったのです。
初日の最後に訪れたのは、気仙沼です。気仙沼は、石油に引火して町中が火災に見舞われたこともあるせいか、最も悲惨な状況でした。漁港は地盤沈下が激しく、南気仙沼地域では水がわき出ているためか、がれきの撤去も十分に進んでおらず、破損した建物もそのままの状態で放置されていました。
【気仙沼】
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その気仙沼も、私たちが次に訪れる大島に守られていたため現状の被害にとどまっているとのことです。大島がなければ気仙沼の被害がもっと大きくなっていたと思われます。
僕らは、気仙沼からフェリーに乗り、大島に行きました。もう夜になっていたので、よくは見えませんでしたが、港には、がれきの山がありました。
私達は、そこで、地元の方々のお話を聴くことができました。
大島は、津波が気仙沼市側からと太平洋側から同時に襲い、島を二分したのだそうです。次の日の朝、亀山と言う山の上から島全体を眺めると、津波が襲った経路がはっきりと分かりました。その部分だけ一直線、緑が全くないのです。
【気仙沼 大島】
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さらに、気仙沼の火事が飛び火して山火事になるという事態にもなったのだそうです。例えば、燃えた発砲スチロールが引き波で流れ着くことによって、木々に引火するということがありました。火は次々に飛び火し、一時は、非常に危険な状態になったのだそうです、
その際、島民が一丸となって火を消し止めたのです。指揮は、消防団がとったのだそうです。次の日、亀山に上りましたが、ロープウェイは焼け焦げ、頂上には、焦げた松の木がありました。亀山は、大島の最高峰ですから、火を消し止めなければ大変なことになっていたはずです。みごとな指揮と連携プレーだったのでしょう。奇跡的なことだと思いますが、あれだけの津波と山火事がありながら、死者行方不明者は3000名あまりの島民のうち31名だったのだそうです。
津波の傷跡は生々しく残っていますが、大島は、とてもきちんと整備されていました。これには訳があります。大島在住の気仙沼市議の菅原さんのお話では、被災してからすぐに壮年~青年を中心に、「ばか隊」という組織ができ、被災者の救援、遺体の捜索、どろだし、がれきの撤去などを効率的に行っていきました。「ばか隊」というのは、「自分たちが被災しているにもかかわらず、復旧に向け、率先して行動するなどということは、ばかにしかできない」という意味で、菅原さんが名付けたそうです。しかし、「『ばか隊』はあまりにひどかろう」ということで、「お」をつけて少し丁寧に「おばか隊」と呼ぶことになりました。
特に震災直後、電気も水もなく、電話もつながらず、テレビも見れない中、みなさん不安だっただろうと思います。私達は、被災地から離れたところでTVやネットから情報を得ることができましたが、被災地にいたみなさんは、なんの情報もないまま、何日も過ごさなければならなかったのだそうです。このことは、意外に被災地以外の人達が気づかないところです。情報が無い中で、夜になると真っ暗で、余震が続く中、平静さを保っていることは、ただただすごいことだと思いました。そして、「おばか隊」の活躍が、島民の平静さを手助けすることになったのだと思います。
大島の復旧復興は、「おばか隊」が全て中心になって行われています。ボランティアへの支持も「おばか隊」からなされます。隊の人達は全て大島出身の人達ですから、島の隅々までよく知っています。また、だれがどんな技術を持っているか、お互いわかっているところが強みです。大工の棟梁の村上さんからもお話をうかがいました。ご本人は「たいしたことない」とおっしゃいますが、大活躍だったようです。
ちなみに、被災直後は、水もないので、みな風呂に入れず、菅原さんや村上棟梁が風呂に入ったのは、震災後50日たってからなのだそうです。
今回の訪問で、青年海外協力隊出身で大島にひとりでやってきて、5ヶ月(2011年10月末現在)滞在してボランティア活動をしている細川さんにもお会いしました。菅原さんが電話で呼んでくれたのです。彼は、311以降、さまざまな被災地でボランティア活動をしてきたのですが、大島で腰を据えボランティア活動をしています。最初は、コンテナの中で寝泊まりしていたそうですが、今ではちゃんと窓のあるところで生活しているのだそうです。食事は、レトルト食品があるのだそうですが、たいてい毎日どこかの家庭に呼ばれ食事をしているとのことでした。細川さんは島民の皆さんの生活にすっかり溶け込んでおられ、ボランティア活動の理想的なかたちを見るような気がしました。
菅原さんをはじめとする大島の皆さまには、夜遅くまでお話しいただきました。とても感謝しています。
次の日の朝、海岸でも亀山の頂上付近で、女性を中心に多くの人達が雑草取りをしておられました。みなさん、きさくに話しかけていただき、ただ見学をしているだけの私たちに飴までいただきました。みなさんが、島を大切にしようとしている雰囲気が伝わってきました。
帰る前、宿泊した国民休暇村のスタッフの方がバスで島を一周してくれました。彼の実家が商売をしていた店は、津波が襲った経路にあたり、大きな被害を受けたのだそうですが、幸いみなさん無事だったのだそうです。亀山から港の方を眺めると、彼の実家の店が傾いているのが見えました。実家は流されて跡形もないのだそうです。
その後、私たちはフェリーで気仙沼に戻り、石巻に立ちよりました。石巻の日和山公園から町を一望できるのですが、目の前の門脇地区は津波と火事があり、海岸線全てがさら地のようになっています。元々は、住宅街でした。小高い日和山公園の裏側からは、津波が北上川をさかのぼっていく様子がよく見えたはずです。
【石巻】
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夜は、仙台で、スクールカウンセラーさんたちとお会いしました。彼女達のお話では、生徒達は、一見元気そうにしているのだそうです。しかし、チックとか震えとか胃腸の不調など身体の不調を訴える生徒が増えているとのことでした。
また、未だにある余震が、生徒たちにフラッシュバックを起こさせ、その結果疲れはてている子もいるとのことでした。地震に対する主に子供たちの過敏な反応は、大島の人達からもお聞きしました。
そして、現地で継続的に支援をしているカウンセラーの人達にも疲労がたまっているようでした。
私たちが大島に宿泊した日の夜中と次の日の朝方の2度地震がありました。
放射能の話題は毎日のように放映されるのですが、津波と地震の被災地に関する情報は、さほど伝わってきません。しかし、今回被災地を見てきて、震災は、まだ終わっていないということを実感しました。
私たちにできることはなんだろうと思います。
私は、残念ですが、現地に長期的に滞在することはできません。被災者への直接的なケアの中心は、現地にとどまり継続的に援助をしている人達になるのでしょう。そうした現地の援助者たちがバーンアウトしないようにサポートするのが、私達ができる援助の中心になるのではないかと思います。
最後に・・。今回の訪問を企画し、ずっとハンドルをにぎり被災地を案内してくれた石垣さんに感謝の気持ちでいっぱいです。
向後善之
日本トランスパーソナル学会 常任理事 事務局長
ハートコンシェルジュ㈱・カウンセラー