おじんカウンセラーのとほほ通信 その26 見えない虐待

少し前になりますが、高校生の起こしたある事件について、週刊誌が「事件の陰に母親の溺愛」と報道していて、「あーまたか」という気持ちになりました。あまりにワンパターンな表現ですよね。

マスコミは、紋切り型に「母親の溺愛」などと興味本位に書いてしまうのですが、私は、「母親の溺愛」が、問題の本質ではないと思うんです。

親子関係がゆがんでいる場合、溺愛という表面的な行為があるとしても、その背景に、過干渉、理想のおしつけといった過度なコントロールが存在します。そのコントロール自体が問題の本質です。

なにしろ、最近子供はけんかしないらしいですからねー。けんかしそうになると、親をはじめとしておとなが寄ってたかって止めてしまうみたいで・・。もちろん、怪我しちゃまずいのでしょうが、少々ほったらかしにしといてもいいんじゃないかと思うのですが・・。昔は、「子供のけんかに親が出る」なんてばかにされたものなのですがねぇー。

また、学校でいじめの問題などがあって、いじめている側を学校が注意しようものなら、モンスターペアレントとか呼ばれる親が、学校に抗議するらしいですからね。

とにかく、危険がないようにおとなが露払いしちゃうんですね。これじゃあ、危機対応能力なんて育ちようがありません。

それだけでなく、そうした過干渉で、無菌状態にしながら、同時に親の理想を、過度に子供に押し付けるといったことが、しばしば見受けられます。

不安の時代の反映なのでしょうか?経済の先行きも不透明だし、格差社会はひそかに拡大しているしという背景があり、その結果、「自分の子だけは、なんとかしなきゃ・・」という意識が強くなってきているのでしょうか?

この過干渉と理想の押し付けといったコントロールは、何も母親に限ったものではなく、父親にもそういう傾向があり、その傾向が近年多くなっているのではないかと思います。だから、「母親の溺愛」という言葉でくくってしまうと、本質が見えなくなると思うんです。

そもそも、親と言うのは、適度に手を抜く、あるいは失敗する方が、子供の成長にとって望ましいといわれています。しかし、これだけ社会が不安になると、なんとか完璧に子供を育てようという傾向が強くなってしまうのかもしれません。完璧に育てれば、子供は、やがて良い学校に進学し、安定した会社に勤めることができ、あるいは、食いっぱぐれのない資格を持つことができ、その結果人生における安全が確保できると考えているのでしょうか?でも、それは、幻想です。

さて、それでは、完璧に理想的な子供に育てようとしてしまったら、子供の内面は、どうなるのでしょうか?

実は、「完璧」というものは存在しません。「理想的」と言ったって、それは、親にとって都合のよい物かもしれませんが、子供にとって「理想的」とは限らないでしょう。要は、「完璧」も「理想」も、親が勝手に思い込んでいる幻想にすぎないと言ってよいでしょう。

完璧という思いに固執してしまうとき、そこには、無意識のコントロールが働きはじめます。理想を求めるあまり、子供を無意識に自分の思い通りに動かそうとしてしまうのです。清く正しく美しい子供の姿は、親にとっては喜ばしいものなのでしょうが、子供にとっては、居心地の悪いものになります。

子供は、残虐な部分もあります。思春期になれば、性的な興味も当然のごとく出てきます。しかし、そういう親たちは、子供の暗の部分をきちんと見ようとはしません。「暗の部分」といったって、それは、その親にとっての「暗」であるだけの話で、どんな子供にも存在するものなので、暗でもなんでもないのですが・・。

そうした親のもとでは、子供は、親の幻想である完璧さを演じざるを得ません。そうしないと、親からの愛を受けられないからです。

こうして完璧そうに見える家族関係ができあがります。例えば、子供は親に口答えせず、親がなにも言わなくてもせっせと勉強し、読む本は世界文学全集で、お笑い番組などには見向きもしません。

一見理想的な子供に見えても、実は、その内部では、親による無意識的なコントロールが存在しているわけです。このコントロールが行き過ぎた場合、それは、「見えない虐待」と呼ばれます。

親も、周囲の人たちも、そして、子供も、その実態がつかめないというのが、「見えない虐待」のこわさです。わかりにくいために、被害者には、だれも気づかないうちに大きな傷がついてしまいます。

その代表例が、「ダブルバインド」と「ミスティフィケーション」と呼ばれる、主に親から子になされる介入です。

「ダブルバインド」は、ほぼ同時に矛盾するメッセージを伝えるということです。「なんでも好きなことを言いなさい」と言われて、自分の意見を述べたら、「そういうことは、おとなになってから言いなさい」と言われてしまうような介入を指します。「ダブルバインド」を受けた子供が戸惑ってしまうのは、当然のことです。なにしろ親の言うとおりにしたら、逆に怒られてしまったのですから。「ダブルバインド」を受け続けると、自分が何を感じ何を考えているのかがわからなくなってしまいます。

「ミスティフィケーション」は、イギリスの精神科医R.D.レインが提唱していた概念で、子供の感情を搾取してしまう巧妙な介入です。例えば、子供の希望が明らかではないうちに、あるいは、子供の希望をまったく無視して、「○△クンは、女の子なんかには、興味ないんだよねー」なんて言ってしまうやり方です。こんなことを言われ続けたら、女の子にワクワクする気持ちは、罪悪として認識されるようになってしまいかねません。それって、とても不健康な状況ですね。

ダブルバインドやミスティフィケーションは、どこの家庭でも時には、行われると言ってよいでしょう。たまに行われるのなら、問題はほとんどないのですが、それがひっきりなしに行われてしまうと、深刻な心の傷を子供に与えます。

こうした介入を受けた子供たちは、他者(親)の心の動きに常に敏感になり、それに自分を合わそうとし始めます。その過程で、ワクワクした気持ち、反抗する気持ちなどは、罪悪感や自己嫌悪感、自責の念を伴うものとなり、その結果、自分の気持ちを抑え、やがて、それは、自分を失うといった感覚に至ります。子供たちは、他者の要求に答えようとして、必死に勉強したり、せっせと習い事に通い、けっして親に逆らわずに、不健全と言われるTV番組には目もくれず、自分の中の内的葛藤は微笑みでごまかすというようなことをしだします。

そうして、自己を失っていくにつれ、彼らの内面的な空虚感は、耐え難いものになっていきます。そのため、ますます、親の価値観に完璧に沿おうとします。そうでないと、自分が何者であるのか見失ってしまうような感覚に襲われるからです。

そのことに、親を含め周囲の人は、だれも気づかない場合が少なくありません。彼らが親の期待にたまたま沿うことができるとき、彼らは、完璧なよい子に見えるからです。そうした場合には、子供自身も、自分の心が搾取されていることに、ほとんど気づくことができません。

「見えない虐待」を受けてきた人は、親の期待に沿えなくなるとき、あるいは、自分のやり方が必ずしも世の中で通用しないことがわかってきたときに、目に見える形で危機をむかえます。その時、彼らは、自分の中の空虚感と直面せざるを得ません。それは、恐怖の体験です。自分の中心には何も無い・・そんな感覚に襲われます。そして、彼らは、どうやって、その危機を乗り越えたらいいのか迷い、途方にくれてしまいます。なぜなら、彼らは、それまでの人生で、自らの力を信じることを禁じられてきたからです。

ある人は、過呼吸になり、また、ある人は、空虚感を埋めるために過食に走り、また、自分の中のおぞましさを吐き出すかのように嘔吐を繰り返します。リストカットをする人もいるでしょうし、ひきこもる人もいるでしょう。もちろん、「見えない虐待」が原因でなくても、こうした状態に陥ることは多々ありますし、また、「見えない虐待」を受けた全ての人が、こうした状態になるわけではないことは、言うまでもないことです。

彼らが回復するのは、自分自身と再会したときです。他者からの期待は、自分自身の希望とは必ずしも一致しません。その違を受け入れ、自分の感覚や感情や希望を自覚し、自分が、けっして空虚な存在などではなく、生きるエネルギーに満たされた存在であることに気づいたとき、彼らは、やっとそれまでの苦悩から解放されます。

どうも、最近、「見えない虐待」が蔓延しているように思えます。

(第26回おわり)

向後善之

日本トランスパーソナル学会事務局長

ハートコンシェルジュ カウンセラー