自著推薦 : 『手にとるように哲学がわかる本』

自著推薦 : 『手にとるように哲学がわかる本
かんき出版、2008年刊行、1575円
甲田 烈(本学会理事)

手にとるように哲学がわかる本

 「哲学は何の役に立つか」という問い

 旧著以来のご縁から、今年の7月にかんき出版というビジネス書系の出版社から、『手にとるように哲学がわかる本』を出させていただきました。

この本の前身となる旧著の同名『手にとるように哲学がわかる本』が出版されたのが1999年と、もう10年近く前となります。そのときは監修者がつき、共著という形であったために、さまざまな項目を削らなければなりませんでした。とりわけ、2001年の9.11事件を境ににわかに注目を浴び始めたイスラム教文化圏の哲学に対して、当時は注目度の低さから割愛せざるをえなかったのが、今回の執筆過程においては、担当編集者氏から二つ返事で書き加えることをOKされたことなどには、短い時の流れながら、隔世の感を抱くことがあります。

ところで、その当時と現在とで、「哲学」に対する日本人の一般的評価は、どのように変わってきたでしょうか。正直に考えると、さほど評価が高くなったとも、また低くなったとも言えないように感じられます。まず、日常生活の中で、とりたてて意識しないかぎりは、「哲学」という言葉に触れることはありません。たまさかに目にすることがあったとしても、それは「上司の哲学」や「野球監督の哲学」といったように、会社の人材育成やマネジメントの手法、スポーツにおける選手育成やチームワークの技法といったように言い換えることもできるような、「ノウハウ」か、もしくは「成功哲学」のような怪しげな心理技法が主なものです。もちろん、一口に「ノウハウ」といっても、そこには膨大な技術的知識の蓄積が必要であり、いちがいに否定・軽視することはできません。

けれども、大学教育の場で哲学を専門にしている研究者に対しても、「哲学って、何の役に立つのですか?」と尋ねられることは、実は多いのです。その背景に、私は「哲学=実生活に役立つもの」という強固な観念が潜んでいるように感じています。たしかに、哲学には、今まで自分が無自覚に捕われていたようなものの見方・考え方を打ち崩して、新しい生き方や考え方を見いだすきっかけを創るような力がありますが、それはほんの上澄みの効果でしかありません。哲学の真価は、むしろ個々人が、その個々人にとってふさわしい「問い」を見つけ、それを深めていく過程にあるのです。

そのことは、英語で哲学を意味する“Philosophy”のギリシャ語の語源“Philo-sophia”が端的に示しています。これは知(Sophia)を愛する(philo)という意味で、安易に答えを見つけてそこに安住するのではなく、どこまでも「知を愛し、求める」姿勢を意味しています。日本語でも「哲学」という翻訳語が定着するまでは「希賢学」や「希哲学」という言葉が使われたこともあります。たとえば、「社会学」は社会を研究し、「心理学」は心理を研究する学問だと一目でわかるのですが、「哲学」の「哲」は何を意味するのか、すぐには伝わりにくいものです。そこで、今となってはむしろ「哲学」という訳語よりも「希賢学」の方が、何を対象としている学問なのかがわかりやすいかも知れませんが、賢哲(叡智)を希(こいねが)うということが、哲学という「姿勢」の意味するところなのです。

歴史の中で「統合」を志向する哲学

さて、『手にとるように哲学がわかる本』では、これまで述べてきたような「問い」の姿勢こそが哲学であることを押さえた上で、古代ギリシャ哲学・中世哲学・近代哲学・現代哲学前期(ニーチェ〜構造主義以前)・現代哲学後期(構造主義以降〜2000年代)・東洋哲学(インド・中国・イスラム・日本)・現代社会の諸問題(環境問題・生命倫理・科学哲学・フェミニズム・臨床心理学・インテグラル思想)というように、時間軸としては古代から現代、空間軸としては東西にわたる惑星上の哲学の流れについて、「通史」という形をとって説明しておきました。

この本では通俗的な一般書という性格から、たとえばトランスパーソナル心理学の特定の理論やインテグラル思想のような、ある一定の立場から哲学の歴史を眺めるという方法はとっていません。しかし、個々の領域における最新の研究成果に基づきながら、できるだけ西洋と東洋を等価に扱うような観点から、各時代の哲学的な学説の要点をコンパクトにまとめておきました。

さて、特定の立場からの哲学の紹介に偏らないといっても、哲学の歴史を検討してみると、自ずとそこには共通する特質が浮かび上がってきます。それを一言でいうと、これまでの哲学で、歴史の評価に耐えて生き残ってきたものは、絶えず、さまざまな立場・考え方の「統合」を目指してきたということです。

具体的に、『手にとるように哲学がわかる本』にも記したいくつかの事例を見てみましょう。

哲学の発祥の地とされている古代ギリシャ。紀元前6世紀に、ギリシャの植民都市であったミレトスでは、商業が栄え、交易によって世界中の人々や文物が結びついていました。このような社会状況の下で、ある特定の民族が信奉している神話のように、特定の社会集団にしか通用しない世界観によって、人々をまとめ、コミュニケーションを円滑にすることはできません。なぜならば、各民族によって神話の体系は異なり、信じられている神々の名前も異なるからです。この事実に気づいたタレス(前624〜546年頃)は、「万物の根源は何か?」という問いを立て、「それは水である」という答えを示しました。個々の神話に伝えられ、所属する文化圏によって異なる神話による世界創造の物語をあたりまえのものとして信ずるのではなく、異文化の人々にも通ずる形で問いを設定しなおし、「万物の根源」について問いかけたのです。それは、当時におけるさまざまな価値観をもうひとつ普遍的な形で統合する試みだったといえます。

また、近代ドイツにおける観念論の起点となったカント(1724〜1804年)の哲学について取り上げてみましょう。カントに先立つ時代、西洋では大陸合理論とイギリス経験論という哲学の流れがあり、互いに対立する見解を展開していました。前者は人間に本来備わっている「理性」を重視して、世界に存在する全てのものを合理的に解釈できると考えていました。それに対してイギリス経験論は、人間の知識の根拠は「経験」にあるのであって、私たちを取り巻く外部の世界については、たかだか確からしいことしかわかるものではないと主張していました。片や、万能の「理性」によってすっぱりと物事を説明できるという立場と、もう一方でそんなずばりと説明できるようなものはなく、「経験」による試行錯誤こそが人間の知識の本質だとする立場。カントはこの両者が、部分的には真実を語っていることに気づき、次のように両者の見方を統合しようとしました。イギリス経験論が説くように、人間の知識の根拠は全て経験にあるとはいえません。なぜならば、人間には生まれつきに備わった時間と空間という枠組みがあり、その色眼鏡を通して世界を認識しているからです。例えば、目の前にあるコップは、机の上にある(空間)とか、さっきからある(時間)といったような形で認識されます。「目の前のコップを見る」という経験は、コップそれ自体(物自体)の認識ではないのです。

そうかといって、一方で理性によって全てが解き明かされるわけでもありません。なぜなら、理性とは時空の色眼鏡でものを見るという感性と、感性によって得られたデータを理解するという悟性の働きを結びつけて、コップなら「コップ」という概念を形作る働きのことなので、「理性」を使うことは人間にできても、「理性」それ自体を認識することはできないからです。理性が理性それ自体を知ることができないとしたら、それは万能とはいえないでしょう。だから、理性にも限界があるのです。

カントはこのように、大陸合理論とイギリス経験論について、それぞれの長所を認めるとともに短所を補うという形で、「認識批判」を展開したのです。それは、この両者の考え方をより広く深い立場から統合する試みだと言えるでしょう。

哲学を未来方向から学ぶために

現代に生きる私たちは、さまざまなものの見方や考え方に触れる機会が増えただけ、自分としてどのような価値観をもって生きればよいかということに対して、混乱してしまいがちなのではないでしょうか。そのときに、たくさんの考え方を前にして、「しょせんは人それぞれ」と相対主義的な態度に居直るのでもなく、特定の哲学の学説や心理学の技法、宗教にこだわって「これこそ全て」と狭いものの見方に囚われるのでもなく、自分と異なる価値観や世界観にも開かれると同時に、それらをより広い文脈から意味づけ、それまでの自分のものの見方・考え方をより広く、深いものにしていくためには、歴史上の哲学が取り組んできた「統合」のさまざまな試みは、たしかなヒントを与えてくれます。そのとき、問う姿勢としての哲学ははじめて役に立つのです。

それと同時に、この『手にとるように哲学がわかる本』を書くために、留意した点がもう一つあります。それは、できるだけ「東洋」の哲学も公平に紹介しようとつとめたことです。章立てとしては全体の一章に過ぎませんが、前著に比して、すでに述べたようにイスラム哲学を加え、インド、中国、日本に関しては現代の動向まで加筆しました。実は、そうしたことには次のような理由があります。哲学史の通史を扱った一般的な啓蒙書を通読してみると、「東洋」の扱いが軽いことに気づきます。もし取り上げていたとしても、たとえばインドにおける仏教の誕生や中国の春秋・戦国時代の諸子百家どまりで、まるで東洋には哲学の歴史的発展がないかのようです。それらが取り上げられた場合でも、今度は「東洋思想」という個別の書物として出され、西洋哲学との連関や現代的意義がわからなくなってしまいます。

そのようになってしまう一つの原因は、専門的な哲学界の姿勢にあるのではないかと、私は考えています。明治以降の日本の近代化は、ひたすら「西洋」の学問を輸入する方向で試みられてきました。そしてポストモダンの流行以降、とりわけ専門の哲学の領域では「東洋」という概念自体が、ヨーロッパの植民地支配という歴史的背景を持つ言葉で、そうしたことを正当化する「オリエンタリズム」にあたるのではないかと批判されてきました。そのことには一理があり、もはや留保なしに「東洋」という言葉を使うことはできません。そうだとすればなおのこと、従来の「東洋」という固定観念を突き破って、インド・イスラム・中国・日本の哲学からも虚心に学ぶことがあってもよいはずですが、実際はまだまだ、とりわけ日本の哲学研究者たちの目は「西洋」に向きがちです。それに加えて、従来、中国・インド・イスラムなどの古典を研究してきた専門家たちは、細分化された専門領域の中で研究を続けるため、その地域の現代における哲学的動向に対して、必ずしも明るくないことも理由として考えることができます。このことは、「東洋=古典」という通念にも手を貸してきたと思われます。

けれども、私たちの生きる現代という時代は、国境の枠を超えた惑星規模の課題にさらされています。環境問題や性差別といった問題は、特定の文化圏に限られるものではありませんし、最近の金融危機によって表面化した経済の問題もまた、地域を越えた資源枯渇とその争奪戦が一因となっていると言えます。こうした惑星規模の課題を目の前にしたとき、もはや西洋・東洋ということではなく、地球規模で物事を考える新しい哲学が必要になってくるのではないでしょうか。この「世界哲学」とでも呼べるものの兆候はすでにありますし、未来の哲学はきっと、現代以上にそうした形をとることでしょう。このような未来方向からのまなざしを持ちながら、過去にも学び、新しい哲学を創っていくためには、東西の叡智を統合する視座が必要になってきます。

このように、これまでの自分の視野を問い直し、広く、そして深く考えていくための、ほんの入り口やヒント集として、そして哲学そのものの魅力に触れるために、『手にとるように哲学がわかる本』が役に立ってくれることを願っています。そして未来の哲学は、もしかしたらその読者の誰かが創りあげていくものかも知れないのです。