書評:日本的霊性(鈴木 大拙,岩波書店)

書評:日本的霊性(鈴木 大拙,岩波書店)
甲田 烈(本学会常任理事)

日本的霊性 (岩波文庫)

恐ろしいくらいに豊かな内容の本である。しかもたったの693円で入手可能なのだ。

著者の鈴木大拙(1870-1966)は、アメリカに禅の思想を紹介した、言わば東洋と西洋の思想的交流の架け橋を築いた人物の一人として、トランスパーソナル学の諸著作においてもしばしば言及されている。そしてまた、禅の論理の特質を「般若即非の論理」として描きだしてみせた思想家として、わが国においても注目を集めている。

ところで、「霊性」という言葉には、何かしら異様な響きがあるのではないだろうか。

その原語である英語のスピリチュアリティ(spirituality)については、たとえば「えぐら開運堂」のような娯楽番組や、「スピリチュアルケア」などといった医療に取り入れられた言葉によって、少しづつ親しまれてきているだろう。しかし、それに対して「霊性」については、電車の中や喫茶店の周囲の席で話題に上ることはなく、いわんやお茶の間の会話に登場することもないだろう。それどころか、専門に「スピリチュアリティ」について考察している医療関係者や教育学者までが、この訳語として「霊性」を使うことにためらいを感じている始末である。

それらのことは、大拙の『日本的霊性』が名著の誉れが高いばかりに、きちんと読まれてきていないことを意味しているように、私には思われる。名著なんてえてしてそうしたものだが、残念どころではない。とてももったいない話だ。

鈴木大拙が「霊性」という耳慣れない用語を使ったことにはいくつかわけがある。

第1に、大拙がこの本を書いたのは昭和19(1944)年、つまりは戦前である。当時は、「日本精神」とか「大和魂」といった、天皇を中心とした自民族中心主義的な思想がまかり通っていた時代である。そうした「精神」や「魂」の偏狭性は、いきおいそれと対立する「物質」という概念を予想せざるを得ないであろう。

大拙は『日本的霊性』の中で、「精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互に矛盾しながら、しかも映発する」こととして、「人間霊性の覚醒」を位置づける。対立するものの見方の「裏に今一つの世界が開ける」こと。大拙における「霊性」は、まずは二元的思考様式を超越するための戦略的な概念として提示されたのだ。

第2に、「霊性」という言葉によって、「宗教」の意味について徹底的に考えてみることができるようになる。宗教は何か彼方のもの、天を目指すが、霊性の根拠は地上の日常生活にある。大拙は宗教意識が「霊性」のはたらきを基として成立するものと説いている。「霊性と云うと如何にも観念的な影の薄い化物のようなものに考へられるかも知れぬが、これほど大地に深く根を下ろして居るものはない。霊性は生命だからである」と。

第3 に、大拙は「超個」と「個」の相即性について、「霊性」を説いている。日本仏教の本質は浄土教と禅に代表されるが、「前者はいつも個己の方向に超個の人を見、後者は超個の人の方向に個己を見る」。ただひたすら個が超個を目指す自力の道だけではない。個を通して超個がはたらきかける他力の道もある。上昇と下降の統合という、人間の意識変容に関するトランスパーソナル学最大のテーマの1つを、大拙はすでに1940年代に指摘しているのである。

第4 に、大拙はこのような「霊性」が日常生活においていかに生きられるかという問題について、浄土宗の在家信者である妙好人(みょうこうにん)を例にひきながら論じている。特に『日本的霊性』第四編に紹介された妙好人・浅原才市(1850-1932)の詩は圧巻である。才市は終生、市井の下駄屋として生きたが、自分が欲望にとらわれた浅ましい存在であるという自覚と、それゆえに阿弥陀仏にすでに救われていることへの喜びを数々の詩に残しているのである。厳しい自己内省能力と救いへの気づきは、何ら矛盾するものではない。

これまで簡単に紹介してきただけでも、「霊性」という言葉の持つ異様さの意味がうかがえるはずである。それはすなわち、私たちの成熟した個としての自覚と、それゆえに働く超個への自覚は、どこか遠い世界にあるのではなく、今生きられている生活の裏に開ける「今一つの世界」に現にあるということを意味している。

私たちが現在、観念的でもオカルト的でもない成熟したスピリチュアリティへの道を求めるとき、鈴木大拙の『日本的霊性』という本は、多くのヒントを与えてくれること請け負いである。「恐ろしいくらいに豊かな内容の本」とは、そういうことなのだ。