特別寄稿 子どもの発達と教育 ~インテグラルな視点から~ 後藤 友洋

子どもの発達と教育
~インテグラルな視点から~
後藤 友洋
国語専科教室
http://www.kokusen.net/
講師

現在、私は民間の教育機関で子どもに読み書きを教える仕事をしています。同時に、個人的な探求としてインテグラル理論に取り組み、教育の領域における応用を模索してきました。そうしたなかでみえてきたことは、教師ほど「インテグラル」であるということが明確な形で要請されている職業は他にはないということです。教師は、人間の成長のすべての段階(All Levels)について、深い理解と共感を示しながら、成長のあらゆる段階に位置している一人ひとりの子どもたちに向き合い、成長を促進するために働きかけていかなければならないのです。今回は、そうした成長の支援に取り組む際に、日本の教育が直面している問題についてお話をさせていただきたいと思います。

◆「ありのまま」を肯定することへの誤解
教師の仕事とはなんでしょうか? いうまでもなく、それは、人間の成長を支援することだといえるでしょう。したがって、医師が治療を行うために病気に対する知識が必要であるのと同じように、教師は人間の「成長」について、ある程度理論的に考えることができる必要があります。言い換えれば、教育とは、「人間とはこうあるべきだ」という理念に基づいて行われる営みであり、それは生徒たちに、自らの示す理想の人間像に近づくよう促すことであるといえるでしょう。
一方、今日、教育を志す人々の間では、子どもの「ありのまま」を肯定しようとする教育論が広く共有されています。そこでは、理想の人間像とは、誰かに与えられるものではなく、一人ひとりが自分自身のなかに見出さねばならないものだと考えられます。そうした考え方は、教師の善意や深い共感に基づくものであることは確かです。しかし、このような考え方によれば、教師が自らの理想とする人間像を子どもたちに示すことは、ある特定の価値の「押し付け」であり、「傲慢」であるとされてしまいます。その結果、教師は明確な教育目標を設定して、自らの指導力を発揮する機会を自ら放棄することになってしまうのです。
はたして、これは教師としての正しい態度でしょうか? 私は、このような「善意」の教育論を語る教育関係者に出会うたびに、何度も自問しました。そこには、何かが決定的に欠落しているように思えたのです。
いま、改めてその疑問の内容を整理してみるなら、次のように説明できます。すなわち、価値中立的な教師の態度は、教育というものが、そもそも子どもたちの思想・信条に何らかの形で影響を与えないわけにはいかないものであり、教育とは、必ずある意図のもとに行われるものであるという事実をむしろ隠蔽しているということです。結果として、こうした考え方は、教師と生徒の双方に都合のよい逃げ道を用意することになります。教師は教えることの責任を、生徒は学ぶことの責任を放棄することができるのです。したがって、もしこのような価値中立的な、ありのままを尊重するという考え方で教育活動に取り組むなら、それはスタートの時点ですでに教育としての資格を失っているといえるでしょう。なぜなら、生徒の「ありのまま」が尊重されるとき、生徒は自らの内に克服すべき課題が何もないかのように扱われることになり、そのようななかで行われる教育には、より優れた存在になるための「成長の見取り図」が、全く存在しないことになるからです(こうした主張がなされるとき、しばしば教育は「共育」と表現されることになります。「教える」という教育の重要な側面が捨てられてしまうのです)。だから、私はこのような考え方を持った教師は、自らの立場を最後まで守りながら教育活動を行うことは不可能であると思うのです。では、こうした「ありのまま」を肯定するという教育理念に対して、インテグラルな視点は、どのような教育理念を対置することができるでしょうか?

◆子どもを改めて発展途上の存在と位置づけること
上述したように、教育とは子どもたちに理想の人間像を提示することなしには決して成り立たないものです。ところが、このように教育を定義すると、必ず「そのように教師が一方的に子どもに価値観を押し付けるべきではない」という反論に出会うことになります。しかし、そのような反論をする人々でさえ、子どもたちに自らの理想とする人間像を投影しているのであり、教育に「教える」という側面が必ず付きまとうのである以上、彼らもある一定の価値を押し付けることは免れないのです。
では、彼らの理想とする人間像とは、どのようなものでしょうか? この問いに対する優れた解答として、教育評論家の尾木 直樹氏の「子ども観」が挙げられます。尾木氏は、現代の子どもには「地球時代を生きるヒューマニズムと成熟した民主主義の感性」すなわち、「市民性」の芽生えが認められるとしています。そして、子どもを「完成体である大人への発展途上人」として捉える見方を否定しています。こうした考えには、私も基本的に賛成であり、これからの教育においては、自律的に物事を考えることのできる市民を育てることが最優先事項であることは間違いありません。
しかし、 一方で、次のような疑問が残ります。そのような市民性を備えた個人は、いかにして形成されるものなのか、という疑問です。発達心理学の研究を参照するなら、それは、発達の過程で「獲得」されるものであるはずです。したがって、市民性の獲得は発達が順調に進んだ場合の「ゴール」であって、子どもたちにあらかじめ与えられているものではないはずなのです。ところが、子どもの「ありのまま」を尊重する立場に立てば、それははじめから子どもたちに備わっている能力であるということになってしまいます。なぜなら「市民性」とは、一人ひとりの存在が平等に扱われることによってはじめて成立するものであり、「ありのまま」を尊重する立場を認めるなら、平等であるはずの子どもはすでに市民として生きる権利を有しているということになるからです。
しかし、この考え方は、それではなぜ人間が成長する必要があるのかという根本的な問いに対して、決して答えることができません。発達の視点が欠如しているのです。そして、こうした平等主義は、教師と生徒の間に、教え、教えられるという上下関係を認めません。彼らの立場を徹底するなら、教師と生徒は、対等な関係を築いていくべきなのです。
このように、教師と生徒を水平的な関係のもとに位置づける平等主義の発想は、大人と同じように、自由意志に基づいて自らのあり方を決定することができるかのように子どもを扱うことになります。しかし、実際には、そのように自律的な個として生きることは、非常に難しいことです。
ケン・ウィルバーが指摘しているように、人間は、発達の過程で、前-慣習的段階、慣習的段階、後-慣習的段階という3つの成長の段階を通過していきます。そして、自律的、かつ民主的であることは、後-慣習的段階に至ってはじめて獲得される能力なのです。したがって、子どもは、まずは慣習的段階において規範を学び、後-慣習的段階において規範を相対化する(これが、自律的な市民性を獲得するということの意味です)という順序で成長していくことになります。つまり、教育の初期の段階では、なによりもまず「躾」が重要になるということです。
しかし、最近の教育関係者の間ではこの「躾」という言葉にも抵抗を感じる人が多いようです。原因は、これまで確認してきたように、それが教師と生徒の上下関係を意識させる言葉であるからでしょう。そのような批判をする人々は、ある意味で非常に健全な精神の持ち主であることは確かです。ただし、この人々は、自らのその健全さが、子どもの頃にきちんと躾を受けたことによって形成されたものであることに気付いていません。その結果、実際には前-慣習的段階に位置している子ども達を、教師自身と同じ位置に――すなわち、後-慣習的段階に、誤って位置づけてしまうのです(前後の混同)。
このような誤りを招いている原因は、生徒の存在そのものを肯定することと、生徒の能力を評価することを混同していることにあります。ウィルバーは、すべての者に平等に与えられている存在そのものの価値(基底価値)と、相対的に他の存在に対して優越している価値(内在的価値)を区別していますが、まさにこの2つの価値が、同じ次元で捉えられてしまっているのです。
たとえば、新自由主義的な教育を巡る論争において、一人ひとりの生徒を平等に扱うべきであるという革新派と、生徒間の能力差を認めるべきであるという保守派の対立がしばしば問題とされます。この場合、革新派は基底価値を、保守派は内在的価値をそれぞれ問題としているのです。ここで、革新派と保守派の双方が主張している内容は、それぞれに一定の真実を宿しています。しかし、問題はその真実が一面的であり、異なる価値の領域があることをお互いに認められないということなのです。
さて、それではこの2つの価値の違いを前提とした上で、それらを統合的に位置づけるには、どのような教育観の設定が必要でしょうか? まずは、子どもの存在そのものの価値を尊重する姿勢が、教師に求められることは明らかです。しかし、子どもの基底価値のみを問題にして、同時に子どもには克服すべき未熟な側面があることを否定することは、明らかな間違いです。なぜなら、子どもの「ありのまま」を肯定する教育観は、子どもを大人と平等の存在として、あるいは、大人以上に高い価値を有した存在として、過度に美化することになるからです。こうした考え方は、実は、大人と子どもの双方を馬鹿にした考え方であるといえるでしょう。これでは、大人は「堕落した存在」であり、子どもは、「堕落しつつある存在」ということになってしまうからです。もし、子どもが大人という存在に向けて堕落しつつあるのだとすれば、子どもは一体何のために成長するべきなのか、わからなくなってしまうでしょう。
私は、このような一面的な子ども観、あるいは教育観に対して、子どもの内在的な価値を同時に重視することを主張します。子どもは、ありのままの姿に価値があるのではありません。すべての子どもは、より善なるものへと成長するための潜在的な可能性を秘めているが故に、平等に価値があるのです。このように子どもの基底価値を定義しておけば、同時に、一人ひとりの子どもの能力は質的に異なるものだということも受け入れることができます。つまり、子どもの存在の価値を尊重しながら、子どもを改めて発展途上の存在と位置づけることができるのです。このような了解があってはじめて、私たちは子どもの発達段階を考慮した教育のあり方について、議論することができるのです。

◆責任への教育
ヴィクトール・フランクルは、教育とは、まず何よりも「責任への教育」であるべきだと主張しています。それは、「自分は何をしたいか」ということよりも「自分は何をすべきか」ということが優先されるべきであるという考えに基づいています。そしてそれはまた、自律的な個人というものが、自分自身の欲求を超えた、 より高次の「意味」の次元に開かれた存在であることを示しています。つまり、真に自律的な個人を育成しようとするなら、個人的な欲求を犠牲にしてでも実現しなければならない「意味」ある行為が、この世界には無数に存在していることを子どもはまず学ばなければならないのです。
子どもの「ありのまま」を尊重しようとする教師の感性は、確かに教育の画一化という弊害を乗り越え、一人ひとりの個性を認めていこうとする、より理想的な教育理念を打ち出すことに貢献したことは間違いありません。しかし、同時に、子どもの「多様性」に目が奪われるあまり、すべての子ども達に妥当する普遍的な価値の領域が見失われてしまっていることも確かです。つまり、全ての人間の背後に息づく普遍的な構造に対する洞察が欠けているのです。 その結果、教師の設定する教育目標よりも生徒の個人的な欲求が優先される学習環境が形成されることになります。その最悪の例が、学級崩壊であるといえるでしょう。したがって、こうした子どもの発達の問題についてどれほど自覚的であるかということは、教師の指導力を測る上で非常に大きな尺度になると、私は考えています。
教師の指導力とは、どれだけ明確な教育目標を子どもに示すことができるかにかかっています。それは、学習の「意味」を軸にした 教育であるということができるでしょう。そこでは、子どもの学習に対する動機は、自己中心的な欲求に基づくものではなく、そうした欲求を超えた学習の「意味」に向けられたものでなくてはなりません。そのためには、教師は子どもに対して学習の到達目標を提示して、その目標を達成するために必要となる「型」を与えることが必要になります。それは、子どもが自分自身のなかに克服すべき課題を見出すことであり、その課題の克服に伴って、成長することの喜びを感じられることが、人間としての健全なあり方なのです。
一方、子どもの「ありのまま」を尊重して、子どもをすでにそのままで完成された個人として捉えるなら、我々大人は、彼らに何ひとつ、示すべき価値がないことになります。そのとき、自律的な学習とは、個人の欲求に従い、好きなように振舞うことと混同されてしまうのです。その結果、こうした教育観は、子どもをある特定の型に当てはめることを拒絶することになります。しかしそれは、残念ながら、教師の指導力不足を露呈することにしかならないのではないかと思います。
いま、教育に求められているのは、一人ひとりの子どもが異なる発達段階に位置していることを認識した上で、それぞれの段階の子どもにどのような支援ができるのかということを模索することです。子どもの振る舞いを無条件に肯定するのではなく、時には否定し、子どもが自己そのものを克服するように鼓舞すること。それこそが、真に一人ひとりの子どもを尊重することなのです。