訳書紹介:「影」の心理学 なぜ善人が悪事を為すのか?

訳書紹介
「影」の心理学 なぜ善人が悪事を為すのか?
ジェイムズ・ホリス〔著〕,神谷 正光+青木 聡〔共訳〕,コスモス・ライブラリー刊
神谷 正光

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 ドラマや映画の中で、あるいは日常生活において、こんな場面を目にすることがあるだろう:体調を崩している者が無茶なことをして、周りの人たちにたしなめられる。すると、その本人がこう答える。「大丈夫。自分の身体のことは自分が一番よく分かっているんだから!」

 はたしてこれは真実なのであろうか? 一概に「否」とは言い切れないとしても、おそらく一面の真実というのがせいぜいといったところだろう。身体のことがそのくらいだとしたら、こころに関してはなおさら、「自分が一番よく分かっている」と断言するのは難しいに違いない。

 「影」とは、ユング心理学の中核概念のひとつである。ごく簡単に(機能的に)言えば、それは「自分自身を困惑させる傾向を持つ、自分自身のあらゆる側面」と定義される(本文p. 11)。困惑させる側面であるからこそ、私たちは「影」から目を逸らそうとする。したがって、「影」の存在を受け入れて、よく分かっていると言えるようになるのは容易なことではない。その分、「影」と共に在ることが多少なりとも可能となれば、その人は人間として「ひと皮むけた」域に達することができるのだろう。

 本書はこの「影」について、実に様々な角度から考察がなされている。善・悪という対立軸を超えたところに「影」を位置づけ(2章)、個人レベルの「影」(3〜5章)、集合的な「影」(6章)、制度(7章)、モダニズム(8章)、神(9章)……と、その対象を広げ続ける。そして再び個人として「影」をどう受け入れるか(10章)、そのワーク(11章)という域に立ち返る。

 翻訳作業に取りかかる前、このような目次を見た私は、神の域にまで視野を広げたレベルについていけるだろうかと少したじろいだ。しかし実際には、終始「私」という視点から大きな対象を見据えようとする著者の堅実な視点に助けられて、何とか最後までたどり着けたように思う。

 当然と言えば当然なのだが、翻訳の作業の最中、私自身が自らの「影」について否応なしに意識させられることとなった。本文にも登場する「影」の表れ方のひとつとして、「他者に投影され、否認される」というものがある。人の好き嫌いが激しい私は、自らの「影」を否認し、それが他者に投影されていることがしばしばある。そして、その他者の数は一人や二人ではなく、投影された姿も多様だ。つまり、私個人の「影」は単一のものではなく、その時々で様々な形を成して表れるのである。それらを意識に統合させていく作業は、今後の私の人生における課題なのだろう。この本を手にされる方々にも、似たような体験がもたらされるに違いない。

 最後に、タイトルについて一言。原題が「なぜ善人が悪事を為すのか?」(Why Good People Do Bad Things?)で、『「影」の心理学』は訳者のオリジナルである。「影」を取り扱った著作では、河合 隼雄先生の『影の現象学』が有名だが、これが出版された当時は「心理学」と称するのが難しかったそうである。それから30年以上の時を経て、本書を「心理学」という呼び名で世に出せることとなった、時代の重みをかみしめている。