おじんカウンセラーのトホホ通信 その20 吉福伸逸氏インタビュー(1)

【その20吉福伸逸氏インタビュー(1)】

今回から、4回にわたって、セラピストの吉福伸逸さんとの対談をお伝えします。吉福さんは、日本にトランスパーソナルの考え方を導入した最初の方で、数々の著作、翻訳があります。ご本人は、現在トランスパーソナル学という枠を超えて、独自の活動をされています。

インタビューは、吉福さんのワークショップの前日にお時間をいただいて、行いました。内容は、セラピー全般についてです。吉福さんとのお話は、いつも冗談交じりで楽しいのですが、その中に、しっかりとクライアントさんに相対しているという重みを感じます。

どうぞ、お楽しみください。

【吉福伸逸氏プロフィール】

著述家、翻訳家、セラピスト。早稲田大学文学部を中退し、ボストンのバークレー音楽院へ留学。ジャズ・ベーシストとして活躍後、カリフォルニア大学バークレー校にて東洋思想やサンスクリットを学ぶ。
(株)C+Fコミュニケーションズ、(有)C+F研究所を創設。
日本に初めてニューエイジ、ニューサイエンス、トランスパーソナル心理学などの分野を体系的に紹介。著書に『トランスパーソナルとは何か 増補改訂版』(新泉社)、『トランスパーソナル・セラピー入門』(平河出版社)、翻訳に『意識のスペクトル』(春秋社)、『無境界』(平河出版社)、『タオ自然学』(工作舎)等多数。1989年以降、ハワイ在住。
【対談その1】

向後

本日は、セラピストの吉福伸逸さんをお迎えして、セラピーの考え方全般と、それから、吉福さんがとりくまれている統合失調症などの、いわゆる治癒が困難と言われている疾患に対するアプローチについてお聞きしたいと思います。

吉福さん、よろしくお願いします。

吉福

はい、それじゃあ、はじめましょうか。

今、向後さんが言われたことなんだけど、自分の経験をベースとして言えば、たとえば統合失調症に対して、なにができて、どうすれば、その当人自身が内なる解離を強く感じて、焦燥感の中で生き続けると言うことから解放するということは、可能だと思いますね。

しかし、解放することによって、社会の要請にこたえるような人間になるのかどうか、あるいは、社会の要請にこたえることに意味を感じるような人間になるのかどうかについては、僕は、あのー目を向けていないんです。そういうことに目を向ける必要性を、僕は感じておりませんので。

向後

いきなり、過激ですねー。(笑)

セラピーを、その前提で、進めていくということですね。

吉福

その前提で考えていかないと難しいと思うんですね。

向後さんも経験なさっていると思うのですが、セラピーの全体的な傾向というのは、二段階あると考えていただければいいと思うんですね。

ひとつは、社会の要請に機能できなくなって自らが激しい苦しみの中にいる人が、社会の要請にこたえられる状態になること。

ということは、社会のルールにのっとって、社会的に機能するような状態になることを社会が要請しているわけですよ。

精神的な問題を抱えている人たちに対して。

その要請があるために、問題を抱えている人たちは、その要請にこたえようとしているわけですよね。

だから、セラピストやカウンセラーのところに来たりするわけですよね。

だけど、それでいいんだろうかという疑問が、僕の根っこの中にあるんですよね。

向後

そうですね。

たとえば休職している人を職場復帰させるとか、ひきこもりの子を学校に返すとか・・。

吉福

そうですね。それはさ、アルコール依存にせよ、薬物依存にせよその他の精神疾患にせよ、結局そうですよね。それはさ、社会の要請がそうだからこそ、その中で苦しんでいる当人が、その要請にこたえようとして、苦しみを抱えて行って、症状そのものがさらにひどくなっていくという状況があると思うんです。

ですから、僕なんかは、社会の要請をいったん横に置いておいておきましょうよと思うんです。それが、もうひとつの段階のセラピーですね。

向後

そうですね。

吉福

そういうもんですよね。

社会からの要請と言うものを横に置いておくと、人間が本来抱えている分離解離が浮き彫りになると考えているんですね。人間と言うのは、分離しているものじゃないですか。

向後

いろいろ分離していますね。

吉福

まず最初に、新生児として生まれて、母と一体化している状態と言うのは、きわめて短いですよね。その後に、母と自分の間に分離があって、自分と他人との間に境界線があるということに気づくということは、子供にとっては、誕生時の苦しみに勝るとも劣らない一種の巨大な、なんて言うんですか、大惨事なんですよね。わかりますよね?

向後

わかります。

吉福

だからこそ、我々は、その後、自我と呼ばれるようなものを発達させて、分離にこたえる仮面をかぶっていくわけです。

そのことが、人間の中に激しい分裂を固定化させて、それにはたと気づいた人たちが、精神的におかしくなっていくし・・。

自分が気付かないままだったらいいんだけれど・・。

気がついてしまいますと、その分離を何とかしようとすると、要するに社会から見ると、反社会的な行動に走る方向すらも見られてしまうわけですね。

ただただとじこもりというか、なんといいましたっけ・・。

向後

ひきこもりですか?

吉福

そうそう、ひきこもり。

ひきこもりという状態なら、もう僕はやっぱりその方々が、今言ったようなことを理解しているのかどうかわからないけれど、根源的な分離に対する感触ですよ。感触に対する反応ですよ。

僕は、私は、社会の要請にこたえられない。

わかりますかね?

向後

わかります。社会からの分離ですね。

吉福

それは、アクティングアウトのひとつの形態なんですよ。僕は、非常にそのマイルドでやさしい気弱な反応なんだと思うんですけど。そのためにひきこもりと言う形が存在しているんだと思うんですがね。それが逆に出て行ってより激しく外に向かう場合もあると思いますけど。

向後

反社会的な反応ですね。

吉福

そう、反社会的なね。

犯罪なんていうと、すぐその背景に精神障害がほのめかされたりするんですけど。裁判所なんかでもよく言われていますよね。

精神的におかしいと犯罪者が、罪に問われないってことあるじゃないですか。

向後

心神喪失状態とか。

吉福

そうそう心神喪失状態。

僕は、もうなにか犯罪が起こるたびに精神的な問題が背景にあるなんて言われるたびに、「あー、またこれで、社会そのものに、精神的な障害というのが反社会的なもので、犯罪で、罰せられる対象であるかのように扱われている」と思ってしまうんです。

向後

みなさん「そういうつもりではない」と説明されるのですが、今、吉福さんがおっしゃったような誤解(精神的な障害というのが反社会的なもので、犯罪で、罰せられる対象であるかのような誤解)のもとにテレビなんかの報道を見られている方はいらっしゃるでしょうね。それは、問題ですね。

吉福さん

僕は、それをなんとか変えたいと思うんですよね。

向後

さきほど吉福さんがおっしゃった、セラピーの二段階ですが、ひとつは、社会のニーズに合わせていくという形のセラピーで、もうひとつは、そうしたニーズにこだわらないセラピーということですね。

最初の段階のセラピーについてなんですが、セラピストたちの中にも、誤解があると思うのだけど、たとえば、天職という言葉があるじゃないですか?

吉福

天の職の方ですね。

向後

例えば、「天職を見つけるというのが、自己実現(用語解説2参照)」みたいな誤解が、一部にあるんじゃないかと思うんですね。

吉福

うそだぁー。

向後

そう言う感じの雰囲気があるんですよ。例えば、いわゆる「自分探し」をしている人たちや、それをサポートしているセラピストなんかにね。

あれね、すごい違和感を感じるんですよ。

なんだか、職ありきみたいな感じでね。職と言う枠組みの中で、自己実現というものを限定してしまおうとするみたいなことが、時々見受けられるんです。自分探し=天職探しみたいなね。

「そうじゃないだろ?」って思うのですが・・。

場合によっては、職と言うのは、お金を稼ぐだけでいいというのだってありだと思うんですよ。

吉福

生きていくだけのね。

向後

生きていくだけのね。

吉福

お金が介在しないでそういう生活できる場だってあるじゃないですか?

向後

例えば?

吉福

例えば、どっか耕すところ行ってさぁ、畑でも耕しながらさぁ・・。遠い離れ小島に住むとか。そういう人もいるじゃないですか?

向後

それもそうですね。

それから、たとえば、17世紀辺りまでの数学者なんか、まったくお金になってないじゃないですか?まったくね。あれは、職業と言うよりも趣味ですよね。

フェルマーの定理を作ったフェルマー(用語解説1参照)さんなんかも、たぶん趣味でやっているわけじゃないですか?プロじゃなくて、アマチュアですよね。それでも数々の実績をあげて、それで、とても満足しているわけです。

吉福

それで充分自己実現しているわけですね。

向後

だから、職イコール自己実現なんていうのがね・・。

吉福

そんな風潮あるの?

向後

なんとなくですね。全部じゃないけれど、そんな感覚を持っている人たちがいると思うんですよ。「天職をみつけよう!」っていう言葉のなかに、天職を見つけることが自己実現みたいな意識があるように思うんですよ。その結果、自己実現のための職探し・・なんて感じになってしまうことがあるんです。

でも、実際には、そんな天職がみつかる、つまり、職と言う方向が自分の自己実現の方向と一致している人なんていうのはまれなわけで、結局は、「これが、僕の天職で、この方向で行けば、自己実現できるんだよね?」と、自分をむりやり納得させていくということがあると思うんです。

本当はね、そういう人たちのすべてとは言わないけれど、かなりの人たちが、自己実現というより、社会の中で居場所を探しているわけだと思うんです。それ自体は、けっして悪いことではないのですが・・。

吉福

それはさ、非常に原初的な部分で、人間性心理学で言えば、ベーシックなベーシックな段階の充足感にしかつながらないじゃないですか?

向後

マズローの欲求の段階(用語解説3参照)ですね。

吉福

そう、マズローのね。所属意識ですよね。自己実現でもなんでもないですよね。

向後

そのへんが、なんとなくごちゃごちゃになっているような状況があるように思いますね。ベーシックな段階の充足感を求めるのは、それはそれで重要なことですが、そうした欠乏欲求と、成長欲求がごっちゃになると変なことが起こると思います。

そうなると、まずは、社会に戻すのが一番いいんだ、そこから始まって、次は自己実現だという感じになってしまう。

吉福

それは、強く感じるんですよ。日本にいるこの5~6年、ハワイで十数年過ごした後に、帰ってくるたびに、常に、自分の中で、なんだろう、なんでこんなことしているんだろうと思うんですね。

僕がみんなに示そうとしている人間像と言うのは、皆が求めているものとは違うと言うことがすごくはっきり僕の中あるんですね。

でも、(日本の社会の中に)どうしても社会的に機能していく人間になっていかないと、まず社会が満足しないし、社会が満足しないと言うことをベースにして、本人が満足しないということがあるんですね。

僕は、それではおかしいとすごく感じている。

まあね、向後さんが事務局長をおやりになっている、なんとかという学会(日本トランスパーソナル学会のこと)ではね、昔僕がやっていたんですけど、基本的にまず健全な自我を確立するなんていっていましてね、健全な自我を持つと言うことは、社会的に機能すると言うことで、つまり、自らを欺く力をしっかり持つということなんですね。

向後

ははは、いやー、僕らは、「自らを欺く力をしっかり持つ」なんて言ってませんけど(笑)。

吉福

でも、あのほら、明らかに、自らをはっきりと欺いて生きて、なんの疑問も感じないことが健全な自我を持つということなんですね。

ケン(ケン・ウィルバー;トランスパーソナル心理学の理論家のこと)なんかが言っているのは、そこを通過しないとその先には行けないって話があるじゃないですか。僕はねぇー、そこにすごく大きな疑問を感じているんです。そういうこっちゃないですよね。

向後

そうですね。

<つづく>

【用語解説】

1、フェルマー・・ピエール・ド・フェルマー

17世紀のフランスの数学者。数学における数々の先駆的な仕事をする。

弁護士でもあったフェルマーは、その余暇に数学の研究をしていた。

フェルマーの最終定理は、360年もの間、数学者を悩ます難問だったが、1994年イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが証明に成功した。

フェルマーの最終定理とは、

「3 以上の自然数 について、xnynzn となる 0 でない自然数 (xyz) の組み合わせがない」という定理のこと。・・ちなみに、n=2の場合は成り立ち、ピタゴラスの定理となる。

2、自己実現

個人が、自分自身の内面にある潜在的な可能性を、いかんなく発揮し生きること。私自身の考えでは、自己実現と言われる状態と言うのは、ほとんどの場合、部分的な覚醒だと思います。例えば、インタビューの中で、数学者が、数学の定理を発見する過程を例に挙げて、自己実現という言葉で説明していますが、それは、その分野では、自分自身の潜在的能力をいかんなく発揮しているので自己実現的とも言えますが、全人格的に自己実現しているとは限らないと、私(向後)は考えています。

3、マズローの欲求の段階

アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、提唱した概念。

下位の欲求から、上位の欲求へ、生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、尊敬(承認)欲求、自己実現欲求の5段階があるとされている。インタビューに出てくる所属欲求は、所属と愛の欲求に含まれます。すなわち、集団に属したり、仲間から愛情を得たいと言う欲求のことです。

(第20回おわり)

向後善之

日本トランスパーソナル学会事務局長

ハートコンシェルジュ カウンセラー