書評 : スピリチュアリティーとは何か

書評 : スピリチュアリティーとは何か
──哲学・心理学・宗教学・舞踏学・物理学 それぞれの視点から──
尾崎 真奈美・奥 健夫編
(ナカニシヤ出版刊、2007年)
甲田 烈 (本学会常任理事)

スピリチュアリティーとは何か―哲学・心理学・宗教学・舞踊学・医学・物理学それぞれの視点から

スピリチュアリティ(Spirituality)という概念は、トランスパーソナル学にとって最も重要な問題領域のひとつであろう。この言葉はわが国では主に医療現場において、末期患者への心理的援助のなかで用いられていたが、2006年には全国紙にも見られるようになり、医療現場とは異なる巷の「スピリチュアル・ブーム」も相まって、広く一般にも知られるようになってきた。こうした社会的背景により、スピリチュアリティに関しては、社会学・心理学・宗教学などの立場から、2000年代を皮切りにいくつかの論文集が刊行されている。

本書は、2004年に「スピリチュアリティ尺度研究会」として立ち上げられ、「スピリチュアリティ学際研究会」への改称を経て、現在も「スピリチュアリティ研究会」と改称して継続されている会合における共同研究を基盤とした論文集である。本学会からは、常任理事の井上 ウイマラ・甲田 烈・向後 善之、そして理事の尾崎 真奈美が参加している。以下、読者の便宜のために、各章と担当執筆者名を表記しておく。

はじめに──スビリチュアリティ学際研究会について
第1章 スピリチュアリティに関する学際的研究の意義──カテゴリーエラーと要素還元主義の克服への挑戦 尾崎 真奈美・奥 健夫
第2章 反転するスピリチュアリティー 甲田 烈
第3章 原始仏教とスピリチュアリティー 大橋 幹夫
第4章 イサドラ・ダンカンの舞踏教育理論とスピリチュアリティー 佐藤 道代
第5章 スピリチュアルな成長の挫折と自己肥大、そしてその危険性について 向後 善之
第6章 スピリチュアリティー教育のひとつの試み──サイコシンセシス ワークをつかった授業より── 田川 亜希子・尾崎 真奈美
第7章 スピリチュアルケア基礎論考 井上 ウイマラ
第8章 心療内科とターミナルケアの臨床を通して見たスピリチュアリテ ィーの発現 井上 眞樹夫
第9章 スピリチュアリティーのモデル化 尾崎 真奈美・奥 健夫
第10章 スピリチュアリティーに関する物理学的考察 奥 健夫
おわりによせて

以上、10編からなる本書の概要をかいつまんで述べてみよう。全体の序論にあたる尾崎・奥の第1論文は、主にケン・ウィルバーによるホロン構造の理論と、対応する領域における学問的アプローチの種別と、4象限図式による各々のアプローチの特異性により、実証科学的方法論と直接経験から得られる知見をともに尊重したスピリチュアリティに関する学際的アプローチの必要性を述べている。甲田の第2論文は「スピリチュアリティ」の定義が論者によって様々であることを概観した後、鈴木 大拙の「霊性」論、ウィルバーの「スピリット」論、西田 幾多郎の「逆対応論」を手がかりに、定義しようと試みるたびに新たな側面を見せる「反転」こそがスピリチュアリティの性格なのではないかと論ずる。大橋の第3論文は、原始仏教におけるブッダの悟りの内容をユング心理学の立場から概観している。

以上のような理論的考察の後に、佐藤の第4論文以降は実践的・臨床的見地からの考察が続く。佐藤はイサドラ・ダンカンの舞踏理論における古代ギリシャ哲学の影響と、自身の舞踏家としての経験から、身体を通したスピリチュアリティの体現の困難なことについて述べている。向後の第5論文はスピリチュアル・エマージェンシーに対する最新の知見と自身の臨床をふまえた考察であるが、とりわけ精神病の諸症状や神秘体験そのものが、体験者の人間としての優劣に関わり無く生じることに注意を促し、神秘体験においても、その「体験」の解釈への固執が精神的退行をもたらす危険があることを例証している。田川・尾崎による第6論文はサイコシンセシス・ワークを取り入れた大学の授業実践の報告であり、井上の第7論文は、自身のヴィパッサナー瞑想の経験や、遺族へのグリーフ・ケア、そして子育て支援サークルへの参加経験を基盤として、精神分析において説かれる対象喪失に伴う「喪の仕事」と、仏教における自己表象への固執からの解放の過程に平行関係を認めた論考である。井上の第8論文はバッチフラワー・レメディの臨床実践とシュタイナーの理論を背景に、肉体的疾患と精神的苦悩がスピリチュアリティの発現の過程であることを述べている。

そして、尾崎・奥による第9論文と、奥による第10論文は、スピリチュアリティの心理学的・物理学的立場からのモデル化を試みている。第9論文では個人が心理的・社会的・身体的に健康を増進させていく方向を「真のスピリチュアリティ」としてメンタルヘルスの立場から操作的に定義し、健康を増進させる因子として意志(WILL)・喜び(JOY)・感覚(SENSE)を提示している。また多くの場合は肯定的に評価される超自我(道徳)や気遣いという2因子については、社会的適応に特化される傾向もあることから、真のスピリチュアリティそのものではなく、関連因子であることに注意が促されている。奥の第10論文では、宇宙全体に遍在するプラスの方向・エネルギーを有する情報・エネルギーを「スピリット」であり、その局在化が人間における意識現象であるとする仮説の下、主に1990年代に発展したホログラフィック原理と、光を巨視的量子凝縮体として凍結させるという量子論の理論から、スピリット→意識→生命エネルギーへの情報変換について論じている。

これまで、本書の内容を概略的に紹介してきた。冒頭に述べたように、2000年以降、スピリチュアリティをめぐる論文集は数多く出版されている。それらはたとえば社会学的な参与観察に基づくものや、臨床心理学に特化した視点による成果である。そのような中で、本書の特質としては、哲学(甲田)、心理学(尾崎・向後・井上・田川)、宗教学(大橋)、舞踏学(佐藤)、物理学(奥)のように、広範な専門領域から執筆者の参加と、各参加者がスピリチュアリティの探求に際して、単なる文献研究や過去の臨床データの参照に止まらず、主体的な取り組みを研究の主軸にしていることであろう。たとえば、甲田は自身のインドにおける瞑想体験を考察の糸口にしているし、奥の考察は物理理論に止まらず、日常的な経験にも定位するものである。こうした観点は本書執筆に参加した臨床家たちにもあてはまることである。スピリチュアリティの研究は、文献学的な研究や臨床データに基づく客観的考察態度はもとよりのこと、主体としての研究者の自己探求・成長に向けた取り組みも必要とされるのではないだろうか。そうした意味では、本書はユニークな位置に立つものなのである。

しかしながら、そのことは同時に本書が抱える看過し得ない問題点をも浮き彫りにするものである。そのいくつかの点について述べれば、まず尾崎は第1論文でウィルバーの理論に定位した学際研究を提唱しているが、後に続く論者たちのこの観点へのコミットは一様ではない。また尾崎は、第2章以下のレビューを行なっていないため、本書全体は見通しの悪いものになっている。また、この点に関連して、論者たちのスピリチュアリティの定義が一定していないことも、指摘されなければならない。このことの帰結として、個々の論考において独自の視点を含みつつも、関連文献へのレビューの不十分さを露呈する結果になっている。一例を挙げれば、奥は1990年代以降に発展したホログラフィック原理について言及するが、この視点がかつて「カテゴリー・エラー」として批判されたボームによるホログラフィモデルをどのように継承し、かつその問題点を克服しているかということについては言及していない。

そうした問題点を持つ論文集ではあるが、それは本書の意義を低めるものではないということも付け加えておきたい。諸々の学問が細分化される「専門主義」の時代の中で、科学的方法論と直接経験からの知見を尊重する研究態度は望ましいものであり、とりわけスピリチュアリティのようなわれわれの日々の日常的実践に関わる領域については、研究者や実践者の立ち位置を棚上げにしないことが求められるのである。尾崎・奥が第1論文で「この研究会を通して得られたことは、自己中心性からの解放であり、新鮮な視点に触れることにより、かえって専門性の中での探索も刺激され深まっていくという成果」(p. 15)であったと述べているように、学問においても日常生活においても、自己中心性からの脱却と、自らの未知な領域に対する謙虚さは、困難なことではあるが培い続けなければならないことなのではないだろうか。

本書は、そうした試みの持つ隘路と可能性について、考えさせるものである。スピリチュアリティ研究の現状と今後の方向性に関心を持たれる方にとっては、触れてみる価値のある一冊である。