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	<title>日本トランスパーソナル学会 &#187; ニュースレター</title>
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		<title>特別寄稿：グリーフサポートを全てのご遺族に</title>
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		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 11:32:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[特別寄稿
グリーフサポートを全てのご遺族に
橋爪 謙一郎
（株式会社ジーエスアイ代表取締役・本学会理事） 
トランスパーソナル心理学との出会いは、渡米してご遺体への処置（エンバーミング）を学んでいる1995年に遡ります。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>特別寄稿<br />
グリーフサポートを全てのご遺族に<br />
橋爪 謙一郎<br />
（<a href="http://www.griefsupport.co.jp/">株式会社ジーエスアイ</a>代表取締役・本学会理事） </p>
<p>トランスパーソナル心理学との出会いは、渡米してご遺体への処置（エンバーミング）を学んでいる1995年に遡ります。葬儀と心理学のつながりは、日本ではまったく感じられないかと思いますが、アメリカでは葬儀に従事するスタッフ全員に心理学、グリーフ（悲嘆）、コミュニケーション・スキルは、必須の知識･スキルとして学ぶことも義務付けられています。しかし、エンバーマーになるための大学で提供されていた心理学だけでは物足りなく感じ、「もっと心理学を学びたい、ご遺族のメンタルサポートをしっかりと学びたい」と言う思いが次第に大きくなっていったのです。できることなら日本人によりあった心理学を学びたいと大学院探しを始めました。その中から、John F. Kennedyでホリスティック心理学を学びながら、葬儀社で、葬儀の担当とグリーフカウンセラーという2つの役割を持って働いていました。</p>
<p>毎日が自分にとって、気づきや学びの連続でした。 </p>
<p>僕がアメリカの葬儀社で働いていたときに、お別れの場を準備することの重要さを教えてくれたエピソードを紹介したいと思います。</p>
<p>ある日、葬儀の会場にいらした40歳代の男性が、「お世話になった方の葬儀に出て、お別れを言いに来たけど、会場に入ろうとすると足がすくんでしまってどうしても前に進めないんだ。」と僕にこぼし、悔しそうに涙を流したのです。それまでも、顔を見たことがあったのですが、いつでもロビーにいて、葬儀の会場に入っていなかったことをこの一言を聞いて思い出した。</p>
<p>ロビーにある椅子を勧めて「僕でよければお話を聞かせてください」と話しかけました。そうすると、彼は、「親父は、僕が小さいころに亡くなったんだけど、事情があって十分なお別れを許してもらえなかったんだよ。それから、人とのお別れの場で、どうしていいか分からないし、身体が思うとおりに動いてくれないんだよ。」</p>
<p>大好きだったお父さんに「さようなら」や「パパ、大好きだよ。」という一言を伝えられなかったことが、40年近く経ったその時でも影響を与えてしまっていたのです。大切な人の葬儀であればあるほど、お別れを出来ない自分がいるのだそうです。「彼を悲しませたくない」と思ってした家族の選択は、まったく逆の効果を与えてしまっていた。そのときの僕にできたことは、彼に付き添って話を聞き、彼が決心を決めたときに一緒に会場に入っていくことだけでした。その中で、彼自身は、自分の父との別れやそれに伴う様々な感情に向き合い、その悲しみとの折り合いをつけるきっかけを作ることが出来たのです。 </p>
<p>そんな環境にいたおかげで、日本でも、こんな思いを抱えているご遺族が沢山いるのではないかと改めて客観的に見ることができるようになり、そんな状況を変えるために何が必要なのかを必死に考えていました。「日本では、しきたりとか世間体とかばかりが取り上げられることの多い葬儀で、一体どのようにしてグリーフと向き合っているのか?」、「グリーフの影響を受け、コミュニケーションがとれなくなり、人間関係も崩れ、他者への信頼を失っている人は多いのではないだろうか?」などと考え続けました </p>
<p>こうした大きな悲しみに暮れる人々が、内にしまい込んだ思いや感情などを自分の外に出せるように、周囲の人々が温かく支えてあげたいという思いが強くなっていきました。安心して自分の気持ちや感情などを表現でき、心を開いて話を聞いてもらうことができる人や場が、今、求められていると、そして、そのような機会を提供したいと考えたのです。 </p>
<p>2001年に帰国をし、まずは、葬祭業の環境を変えるための人材教育に2年間を費やしました。と同時にご遺族に支援を直接提供するための組織作りを同時に行い、2004年に会社を立ち上げ、今は、ご遺族への支援を多面的に行っています。 </p>
<p>そこで、私自身がグリーフサポートを提供する上で常に意識をしている重要な3つの柱を紹介します。 </p>
<p>①　サポートマインド：サポートの為の横の位置</p>
<p>②　専門性：グリーフについての知識＋スキル</p>
<p>③　セルフケア：サポートを継続する為の習慣 </p>
<p>グリーフサポートによって支えられたら、ありのままの感情・行動を自分らしく表に出せるようになるはずです。 </p>
<p>そんな周囲からの支えがあるからこそ、大切な人がいない環境に向き合うことも出来、受け入れ、自らの力で生きる喜びを再び持つことができるようになると信じています。 </p>
<p>グリーフサポートを提供しようと考えている人には、一人で全てを抱える必要のないことも覚えておいて欲しいと思います。何か悩んだり、壁にぶつかってしまったように感じた時に、ジーエスアイという存在を思い出して欲しい。</p>
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		<title>訳書紹介：『グルジェフ・ワークの実際：性格に対するスピリチュアル・アプローチ』</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1534</link>
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		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 11:30:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[訳書紹介
『グルジェフ・ワークの実際：性格に対するスピリチュアル・アプローチ』
（セリム・エセル著、小林 真行訳、コスモス・ライブラリー刊）
小林 真行（本学会常任理事） 

　十九世紀後半にコーカサス地方で生まれたG・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>訳書紹介<br />
『グルジェフ・ワークの実際：性格に対するスピリチュアル・アプローチ』<br />
（セリム・エセル著、小林 真行訳、コスモス・ライブラリー刊）<br />
小林 真行（本学会常任理事） </p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434126202/transpersonal-22/" target="_blank"><img src="http://ec2.images-amazon.com/images/I/41XIx8OdOmL._SL160_.jpg" alt="4434126202" border="0" /></a></div>
<p>　十九世紀後半にコーカサス地方で生まれたG・I・グルジェフは、二十世紀の前半にロシアやヨーロッパを中心に活躍した思想家であり、その教えは様々な分野の著名人にも幅広い影響を与えてきました。グルジェフの教えの根幹には、人間とは決まった反応パターンを繰り返している機械のようなものであるという見解があり、グルジェフ・ワークでは、自己観察や自己想起、脱同一化等の実践により、そのような半ば自動化した反応パターンからの覚醒を促すことを企図しています。</p>
<p>　今回ご紹介させていただく『グルジェフ・ワークの実際』は、自己愛・偽り・貪欲・恐れ・性的濫用という五つの性格特徴をキーワードに、グルジェフ・ワークというものが実地においてどのような姿を取るのかということを、著者と聴衆とのやり取りの中で浮かび上がらせてゆく体裁を取っています。本書では特に現代人の日常のありふれた場面に題材を絞ってワークの姿を取り上げているため、予備知識を持たなくても近付きやすく、関連書の中でもユニークな内容となっています。</p>
<p>  グルジェフの教えによれば、私たちは通常「偽りの人格」に支配されて日常を送っています。偽りの人格は様々な形態を取りますが、本書で取り上げている五つの性格特徴はその代表的なものであり、これらが日常的な場面における機械的な反応パターンを形作っています。それらはまた自らに備わる資質や能力を十全に発揮する妨げにもなっており、こうした状態から抜け出すためには、偽りの人格によって覆い隠されている「エッセンス（本質）」を成長させる必要があります。簡潔に言うと、これは、偽りの人格に振り回される状態から、エッセンスという中心点へと主体性を移行させていくことを指しており、個人の中でエッセンスが確かな軸足と化した時、資質や能力もその本来の姿を取ることになります。そして、エッセンスを育むための方法論として取り入れられているのが、先に挙げた自己観察や脱同一化、あるいは外的考慮（自己中心的な視点から離れ、自らを取り巻く状況を配慮すること）といった数々の実践なのです。</p>
<p>  グルフェフの教えの中には、精神的な要素に加えて心理学的な側面も色々と含まれていますが、本書ではそうした様々な面について、質疑応答の中で具体例を挙げながら、時にユーモアを交えて解説がなされていきます。また、末尾の用語解説には、グルジェフ関連の基本用語が簡潔にまとめられており、これらをざっと眺めるだけでもグルジェフ・ワーク全体の意図が把握できるので、関連書籍を読み進む際のガイドとしても活用できるようになっています。</p>
<p>　グルジェフのシステムそのものは非常に奥が深く、その全てを理解するのは容易ではありませんが、いかなる教えであろうとも、まずは自分自身の身近な状況や関係性に反映させていく必要があると思います。そうした意味で、本書は実践的なヒントをもたらしてくれる、格好の入門書であると言えます。</p>
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		<title>書籍紹介：「パピヨン」</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1532</link>
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		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 11:27:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[書籍紹介
「パピヨン」田口 ランディ著
向後 善之 （本学会事務局長）

ランディさんと、初めてお会いしたのは、2008年の日本トランスパーソナル学会の会場でした。1日目でランディさんの講演は終わったのですが、その次の日 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>書籍紹介<br />
「パピヨン」田口 ランディ著<br />
向後 善之 （本学会事務局長）</p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4046211903/transpersonal-22/" target="_blank"><img src="http://ec3.images-amazon.com/images/I/31gU-ZDyjhL._SL160_.jpg" alt="4046211903" border="0" /></a></div>
<p>ランディさんと、初めてお会いしたのは、2008年の日本トランスパーソナル学会の会場でした。1日目でランディさんの講演は終わったのですが、その次の日もランディさんは来てくれました。その時、ほんの少し、お父様のお話が出てきました。死に瀕したお父様には、幻覚があり、「『なあ、けい子、指から竹笹の葉が生えているんだ』なんて言うのよ」と、ランディさんは、笑って話していました。私は、「幻覚は、だれもが見る可能性がありますからねぇ」などと、紋切り型の陳腐な答えをしておりました。今から思い出すと、あーかっこ悪い……。 </p>
<p>それは、そんな陳腐な話じゃなかったのです。お父様の幻覚の話は、パピヨンの中にも出てきます。 </p>
<p>パピヨンには、お父様の看取りのプロセスが描かれています。それは、壮絶で、現実的で、苦しく、そして悲しいプロセスです。でも、そのプロセスの中で、お父様が、もっともお父様らしく登場してきます。そこには、船乗りで、アルコール依存で、他人を徹底的に罵り、キレると家の中をめちゃくちゃに壊し、長男に自殺され、晩年には庭木の剪定をしていたお父様の人生が凝縮しています。 </p>
<p>そして、パピヨンのもうひとつの軸が、エリザベス・キューブラー＝ロスの生涯です。ランディさんは、チベットに旅したとき、ひょんな偶然から、ロスの記事を読みます。それが、パピヨン連載のきっかけになりました。ロスは、死に正面から取り組んだ最初の医師と言えるでしょう。彼女が提唱した「死の受容の5段階」は、あまりに有名です。ロスが著書の中や講演会の中でたびたび語っているのが、第2次世界大戦におけるユダヤ人の大量虐殺の舞台のひとつとなったマイダネック収容所をロスが訪れたときの経験です。彼女は、収容所の中で、無数の蝶の絵を発見します。この死と再生の象徴である蝶のエピソードは、あまりに有名です。ランディさんは、その蝶を見に、ポーランドに取材に行きます。 </p>
<p>その結果は、パピヨンを読んでください。 </p>
<p>そのポーランド旅行の前後に、お父様のガンが発見されます。 </p>
<p>その後のストーリーは、ロスの生涯、特に晩年の様子と、お父様の死のプロセスがシンクロしながら展開していきます。 </p>
<p>ロスは、その晩年には、取材陣に悪態をつき、神をヒットラーと罵るという、とても「死の受容」を語ってきた人とは思えないふるまいをします。「自分を愛するなんて、マスターベーションみたいなこと、気持悪くて私の趣味じゃない」（P. 245）などと言い放ってしまいます。一方、ランディさんのお父様は、幻覚にとらわれ、病院の悪口を言い、さまざまなトラブルを引き起こします。 </p>
<p>このふたりの姿には、なんのてらいも遠慮もない、生の人間の姿が感じられます。 </p>
<p>彼らに比べたら、私は、なんとまわりを気にし、言いたいことも言わずに、つまり自分に嘘をついて生きているんだろうと感じました。 </p>
<p>お父様の最後の言葉は、「なあ、けい子、俺はよく生きたろう」（P. 248）です。そして、ランディさんは、「よく生きたよ、父さん」（P. 248）と答えています。 </p>
<p>人の人生は、不完全で、困惑し、挫折し、場合によっては、めちゃくちゃに見えることでしょう。でも、そのめちゃくちゃさを含め、人生はすばらしいと、パピヨンを読んで思いました。</p>
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		<title>訳書紹介：「影」の心理学　なぜ善人が悪事を為すのか?</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1529</link>
		<comments>http://transpersonal.jp/archives/1529#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 11:25:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[訳書紹介
「影」の心理学　なぜ善人が悪事を為すのか?
ジェイムズ・ホリス〔著〕，神谷 正光＋青木 聡〔共訳〕，コスモス・ライブラリー刊
神谷 正光 

　ドラマや映画の中で、あるいは日常生活において、こんな場面を目にする [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>訳書紹介<br />
「影」の心理学　なぜ善人が悪事を為すのか?<br />
ジェイムズ・ホリス〔著〕，神谷 正光＋青木 聡〔共訳〕，コスモス・ライブラリー刊<br />
神谷 正光 </p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434128876/transpersonal-22/" target="_blank"><img src="http://ec3.images-amazon.com/images/I/41%2BPEbwq-iL._SL160_.jpg" alt="4434128876" border="0" /></a></div>
<p>　ドラマや映画の中で、あるいは日常生活において、こんな場面を目にすることがあるだろう：体調を崩している者が無茶なことをして、周りの人たちにたしなめられる。すると、その本人がこう答える。「大丈夫。自分の身体のことは自分が一番よく分かっているんだから!」</p>
<p>　はたしてこれは真実なのであろうか? 一概に「否」とは言い切れないとしても、おそらく一面の真実というのがせいぜいといったところだろう。身体のことがそのくらいだとしたら、こころに関してはなおさら、「自分が一番よく分かっている」と断言するのは難しいに違いない。</p>
<p>　「影」とは、ユング心理学の中核概念のひとつである。ごく簡単に（機能的に）言えば、それは「自分自身を困惑させる傾向を持つ、自分自身のあらゆる側面」と定義される（本文p. 11）。困惑させる側面であるからこそ、私たちは「影」から目を逸らそうとする。したがって、「影」の存在を受け入れて、よく分かっていると言えるようになるのは容易なことではない。その分、「影」と共に在ることが多少なりとも可能となれば、その人は人間として「ひと皮むけた」域に達することができるのだろう。</p>
<p>　本書はこの「影」について、実に様々な角度から考察がなされている。善・悪という対立軸を超えたところに「影」を位置づけ（2章）、個人レベルの「影」（3〜5章）、集合的な「影」（6章）、制度（7章）、モダニズム（8章）、神（9章）……と、その対象を広げ続ける。そして再び個人として「影」をどう受け入れるか（10章）、そのワーク（11章）という域に立ち返る。</p>
<p>　翻訳作業に取りかかる前、このような目次を見た私は、神の域にまで視野を広げたレベルについていけるだろうかと少したじろいだ。しかし実際には、終始「私」という視点から大きな対象を見据えようとする著者の堅実な視点に助けられて、何とか最後までたどり着けたように思う。</p>
<p>　当然と言えば当然なのだが、翻訳の作業の最中、私自身が自らの「影」について否応なしに意識させられることとなった。本文にも登場する「影」の表れ方のひとつとして、「他者に投影され、否認される」というものがある。人の好き嫌いが激しい私は、自らの「影」を否認し、それが他者に投影されていることがしばしばある。そして、その他者の数は一人や二人ではなく、投影された姿も多様だ。つまり、私個人の「影」は単一のものではなく、その時々で様々な形を成して表れるのである。それらを意識に統合させていく作業は、今後の私の人生における課題なのだろう。この本を手にされる方々にも、似たような体験がもたらされるに違いない。</p>
<p>　最後に、タイトルについて一言。原題が「なぜ善人が悪事を為すのか?」（Why Good People Do Bad Things?）で、『「影」の心理学』は訳者のオリジナルである。「影」を取り扱った著作では、河合 隼雄先生の『影の現象学』が有名だが、これが出版された当時は「心理学」と称するのが難しかったそうである。それから30年以上の時を経て、本書を「心理学」という呼び名で世に出せることとなった、時代の重みをかみしめている。</p>
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		<title>巻頭言　「死者の目に映るのは誰 ?」</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1527</link>
		<comments>http://transpersonal.jp/archives/1527#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 11:19:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[巻頭言
「死者の目に映るのは誰 ?」
田口 ランディ（作家・本学会理事）
　まったく奇妙なことだが、死んでゆく人が増えれば増えるほど元気になる。これはどうしたことだろうか。私の生家はすでになく家族はみな死んでしまった。ま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>巻頭言<br />
「死者の目に映るのは誰 ?」<br />
田口 ランディ（作家・本学会理事）</p>
<p>　まったく奇妙なことだが、死んでゆく人が増えれば増えるほど元気になる。これはどうしたことだろうか。私の生家はすでになく家族はみな死んでしまった。まず兄が死に、母が死に、そして去年、父が死んだ。それぞれに壮絶な死であったし、家族を亡くした私を「おかわいそうに」と慰めてくれる知人も多い。しかし、正直に告白すれば私は家族が死んで実に清々しく晴れ晴れと爽快なのである。</p>
<p>　今年、五〇歳になる。とはいえ精神的には三七歳からまったく年をとったと思えない。私が私として感じている私はいまだ三七歳である。これは他人からどう見えようと私にはそう感じられるのでどうしようもない。三十七歳の私は家族がすべて死んでからというもの、自由で楽しく、生きている幸せがこみあげてくる。</p>
<p>　昨年は、とても死ぬ人が多く、年初から父が死に、友人の柳原和子さんが死に、敬愛していた水俣の語り部である杉本栄子さんが死に……と、その後も続々と知人が亡くなった。此岸と彼岸に分ければ、彼岸の人口がどんどん増えている。そして、彼岸の人口が増えるほど、私は生きていて楽なのである。この現象に最近になって気がつき、どういう原理かと不思議でたまらなかった。</p>
<p>　そもそも死者とは何者なのだろうか。実体的肉体の消滅と、存在の消滅とはまったく別のことであると実感する。私にとって死者は「ここではないどこか」に存在している。ここではないどこか、が、どこであるか私は明確に言葉にすることをためらう。はっきりしていることは、家族、親戚、友人、知人たちが続々と「ここではないどこか」へ移行することによって、「ここではないどこか」はその形をあらわにし、その実体をありありと予感させてきたのである。そして「ここではないどこか」がありありと予感されることによって、「いまここ」の地盤が強くなっている。そう感じるのだ。</p>
<p>　二十代の頃、私は自分の寄る辺のなさに不安を感じていた。スピリチュアリティ、アニミズムのような土着性に惹かれたのも、自分にとっての「いまここ」が脆弱だったからに違いない。私という自我意識に連結した土地の記憶、歴史性、民族性、血縁、社会、共同体、それらの密なる繋がりのなかで立ち上がってくるはずの「私といういまここ」 しかし、、その手応えのなさに私はとまどい、身悶えしていた。私は私のなかに「私はだれ」かを探し求めて自家中毒状態だった。</p>
<p>　しかしながら、私が生き続ける限り他人は無常に死んでいく。累々と死者を踏んで生き続けているうちに、その死者たちのいる「ここではないどこか」が次第に姿を表わしたのだ。「ここではないどこか」の実感は年々強くなり、ついに父が死した去年、ここではないどこか」 「い「とまここ」がネガポジのようにぴたっと重なったのである。信じられないことに、私は彼らの死によって自分の居場所を与えられた。いまや私の家族も、私の友人たちも、その死によって私に「総天然色の世界」を与え続けてくれている。</p>
<p>　私は霊的なものに興味はあるが愛着はない。というのは「霊」というものの質を信頼できないからである。私にとっては死んだ家族は「霊」ではなく、家族そのものである。父は父であり、母は母である。家族そのもののまま「ここではないどこかにいる」のであって、霊などという薄気持ち悪いものになられては迷惑だ。家族の霊は家族とは異質のものである。もちろんこれは私の実感であって、霊を信じる人を否定する気は毛頭ない。ここではないどこか」が「どこか」も、霊界「だの浄土だのと限定することはできない。霊界も浄土も、そのネーミングが私にとってまるでリアリティがない。聞いただけでげんなりするのである。私はそういうものと切れてしまった無宗教の現代人なのである。</p>
<p>　そんな私でも、これほどに人に死なれることによって、ついに死者たちが「ここではないどこか」にいるというすてきな妄想を得たのである。これは妄想であるから、私にとっての現実であり、誰がなんと言おうとそのようにしか感じられないのだ。私が自分を三七歳としか感じれないのと同じである。いかんともしがたい実感をもって貫かれた思いそのものなのである。</p>
<p>　私は多くの人と交流しているが、そのありがたみは相手が死んでから痛感する。死者の数が増えれば増えるほど「私というここ」は受肉され、生き生きとしてくるのだ。私はいまや、かつてのような寄る辺なさやとりとめなさを感じなくなってきている。夢中でネイティブアメリカンやアイヌに求めた全体性へのつながり、それに近いものを死者たちのいる「ここではないどこか」に感じ始めた。</p>
<p>　だが、仮に目の前で何千人の人間が死のうと、私が彼らの「他者」として在らねば、いまここ」「が死者によって受肉されることはなかったかもしれない。これは真に私の側の問題であった。</p>
<p>　さまざまな課題において、私が発見した唯一の打開策。</p>
<p>　私はあなたの他者として「いまここ」に生きているか。あなたにとって私は何者か、を問うこと。聴くこと。考えること。</p>
<p>　死者の目に映る私はだれか。</p>
<p>　私を映す死者の目は、いつもあまりに優しい。泣けてくる。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>【特別投稿】「無意識レベルでのカウンセリングの重要性」</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1152</link>
		<comments>http://transpersonal.jp/archives/1152#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 24 Jun 2009 12:01:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[特別投稿
「無意識レベルでのカウンセリングの重要性」
大鶴 和江（本学会会員）
■トランスパーソナル心理学との出会い
私は沖縄にてカウンセラーとして起業独立して今年で 5 年目になります。
最初はヒーリングを生業としてい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>特別投稿<br />
「無意識レベルでのカウンセリングの重要性」<br />
大鶴 和江（本学会会員）</p>
<p>■トランスパーソナル心理学との出会い<br />
私は沖縄にてカウンセラーとして起業独立して今年で 5 年目になります。</p>
<p>最初はヒーリングを生業としていましたが、徐々に心の問題の重要さを痛切に感じ始め、心理療法を学び、カウンセリング + ヒーリングという形にシフトしてきました。じつは私は心理学を大学などで学んだわけではありませんでしたので、たくさんの心理系の本を読み、自分なりの研究を重ねていたところで、「スピリチュアル心理学」という本に出会いました。</p>
<p>その本がきっかけで、トランスパーソナル心理学の存在を知りました。この本に出会えて、自分がいままで漠然と考えていた、心と身体と魂の三位一体が健康の定義であるとし、霊性を重んじていることに心の底から深く同意し、感激しました。そして個を超える存在としての全体性のつながりの中にある自分というものをさらに意識し始めたのもこの頃からです。</p>
<p>それからの自分の活動は、心理学に加えて NLPとスピリチュアリティ、そして成功哲学を加えた考え方をベースに、職場や地域、家庭でのメンタルヘルスの向上を目指した活動を続けてきました。</p>
<p>■ NLP 心理学講座の誕生<br />
そして、2008 年からは自分の四年間のカウンセリング実践の中から得たエッセンスを中心に、心理療法 +NLP+ スピリチュアル + 成功哲学を加えて総合的に学ぶ講座「NLP 心理学講座」をシリーズで沖縄・東京にて開催しています。</p>
<p>目的として、まず、現代社会の複雑化に伴う精神的な問題を抱える人の増加と、それを解決するためのカウンセラーの絶対数が不足していると感じていること。しかも、問題に対して効果的に短期間での解決というニーズに応えること。そのためには、カウンセラー養成に限らず普通に職場におけるメンタルケアのできる人を育成していくことで、うつによる自殺等を未然に防ぐことができ、なおかつ職場そのものが良い循環を生み活性化していくことができると考えています。特に沖縄という場所は地域的にもユタ文化がさかんなところでもあり、心の問題が霊的な問題として捉えられてしまい、解決が遅れて薬物依存に陥るケースをたくさん見ており、民間のカウンセラーがもっと活躍できるようにできたらこのような状況はもっと改善されると見ております。そのためにも民間の優秀なカウンセラーやセラピストをたくさん輩出したいという思いもあってこの講座は誕生しました。</p>
<p>■無意識レベルでは何が起こっているのか ?<br />
2008 年は東京講座と沖縄講座を開催し、先日無事終了しました。</p>
<p>私の講座では心理学と心理療法と NLP スキルをどんどん使いますが、基本的に守っていることは、症状を無くすことに注目するのではなく、その人の無意識レベルでは何が起こっているのか ? に注目してセッションを行うようにするということです。</p>
<p>それには、まず先入観を捨てて、相手の全体を直感で感じとり、つながることから始めます。それが素早いラ・ポール形成と問題解決の早道につながります。無意識レベルを意識したセッションを行うと、依存症や恐怖症がたった一度のセッションで改善したり、うつが劇的に改善されたりしました。また、うつの方には自分の中心を感じられない人が多く、そこで心の声を聴くことにフォーカスした心理療法をたくさん行っています。特に、ご本人には無意識にポジティブな質問を問いかけるワークを行動課題 ( 宿題 ) にして、自分自身の中心を感じることに集中させた結果、うつが劇的に改善したケースが多くみられました。</p>
<p>こうして無意識レベルを意識してセッションを行うと解決が早いだけでなく、劇的に本人の意識レベルでの変容がみられ、同時に本人を取り巻く環境が奇跡のように変化していくという過程をみることができます。</p>
<p>私の今後の活動目標としては、さらに直感レベルでのカウンセリングやヒーリングについても研究研鑽を重ねていくと同時に、東京・沖縄での NLP 心理学講座をさらに内容を充実させていきたいと考えています。</p>
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		<title>【書評】菅野 泰蔵著『カウンセリング方法序説』</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1150</link>
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		<pubDate>Wed, 24 Jun 2009 11:59:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[書評
菅野 泰蔵著『カウンセリング方法序説』
（日本評論社、2006 年）
上嶋 洋一（千葉商科大学学生相談室 / 本学会理事）

　私はいつか、（私自身、師と仰ぐ）京都の西陣地区で 50 年以上往診医として活動を続けて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>書評<br />
菅野 泰蔵著『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4535562458/transpersonal-22/" target="_blank">カウンセリング方法序説</a>』<br />
（日本評論社、2006 年）<br />
上嶋 洋一（千葉商科大学学生相談室 / 本学会理事）</p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4535562458/transpersonal-22/" target="_blank"><img src="http://ec2.images-amazon.com/images/I/51RR805EVBL._SL160_.jpg" alt="4535562458" border="0" /></a></div>
<p>　私はいつか、（私自身、師と仰ぐ）京都の西陣地区で 50 年以上往診医として活動を続けている早川一光（はやかわ・かずてる）の医療思想あるいは臨床哲学を探求するつもりでいる。早川の医療思想の核心とその限界（あるいは課題）を明らかにすることを通して、ひとつには、一人の医師の中に生きて働いている思考の枠組みを学びつつ、もうひとつには、その観点から現代医療の在り方（それはそのまま生命倫理の問題に直結していくはずである）を問い直してみたいからである。</p>
<p>　ところで、医学はサイエンスであるかもしれないが、医療あるいは医療行為は、どこか「ヒーリング・アート」のような側面を持つ。早川は医学に秀でた医師であるというより、そうした「ヒーリングアート」に秀でた医師であるようにも思える。もう少し言い方を換えれば、早川は「医師」である以上に「すぐれたカウンセラー」であるのかもしれない。「早川先生が入ってこられるだけで空気が変わる」といった声も耳にする。もしそうであるならば、すぐれたカウンセラーの実践や臨床哲学の探求が、早川の臨床の核心を理解する手がかりになるのではないか……そういう思いから、本書を読んでみようと思った。</p>
<p>　本書の著者、菅野 泰蔵は 1953 年生まれ。「カウンセリングの神様」（註１）カール・ロジャーズ（Carl Rogers）を、まさに「神様」として崇拝（?）した世代からは一世代、二世代、若い。また日本のカウンセリング界を引っ張ってきた大学や学閥、特定の学派の中にいたわけでもない。（菅野の個人的な資質もあるとは思うが）そうした権威から少し離れた所で地道に臨床活動を積み重ねてきたカウンセラーであるがゆえの、ある意味、自由で、私たちの、そして（おそらくは）専門家の意表を突くような発想には感動すら覚える。</p>
<p>　例えば、「第 1 章 カウンセリングとはあたりまえのことをすること」、「第 2 章 カウンセリングとはサービス業である」、「第 4 章 人を笑わせる “ 芸人 ”になるために」、「第 6 章 神は細部に宿る」等々。その多くは逆説的な表現を取っている。「逆説」とはつまり、合理の世界・常識の世界では理解することのできない何かを、合理の世界・常識の世界にいる私たちに伝えるための知恵なのである。早川の言葉も、その多くは逆説的な表現を借りている。「寝たきりになってもええ。そやけど心は起きてる寝たきりになりなはれ」（註 2）という具合に。</p>
<p>　菅野は次のようにいう。「本書で私が示したいことは、『重要なのは世界を解釈することではなく、世界を変えることだ』というマルクスにも倣い、臨床を『語る』ことではなく、『何を、どうしたらいいのか ?』という実践的（実戦的 ?）なことにある」註（3）と。とはいえ、この「何を、どうしたらいいのか ?」という、菅野にとっての実戦的な解決のための道（戦略）とは、何か特別なことを指しているのではない。あくまでもその基本は対話である。その対話を通して生み出される、いわば「世界を変える言葉の創造」である。</p>
<p>　「世界を変える言葉の創造」を、菅野はどのようにして切り拓こうとしているのか。本書全体がそのことに関わってはいるのだが、「第 10 章 臨床的リアリティについて」の中の事例（註 4）を基に、 「世界を変える言葉の創造」について考えてみたい。38 歳のプロゴルファー K 氏が菅野の所に「カウンセリングを受けたい」と言ってこられた。「僕は失敗を引きずってしまう性格なんです」とのこと。そこで、「とにかく一度一緒に回ってみて、そこでいろいろ観察させてもらおう」ということになる。何番目かのホールで K 氏が失敗した時、「どうして失敗したのか ?」と菅野が問うと、「打つ前の考えとしては、あそこにボールが行ったら、もうペナルティだと思って無理をしないと決めてたんです。でも、打つ段になって、これは何とかなるかもしれないと色気を出して、違うクラブを持ってしまったんです」という。この話から菅野は、 K さんが際立ってそういう性格を持っているのではない。こうした失敗のしかたをすれば、誰だって引きずるものである。一度決めたことなのに、その決まりを破って失敗すれば、誰でも『何であんなことをしてしまったのか』と後悔するに決まっている」（註 5）のではないかと思うに至る。つまり、 Kさんの問題は、「ひきずりやすい性格」の問題ではなく、「引きずるような失敗」を実際にしている、というところにあるというのである。</p>
<p>　専門家も含め、私たちは、何か心理的・精神的な問題が起きると「性格」にその原因を求めてしまいがちである。それは私たちが、「性格」という、抽象度の高い概念を手にしているからかもしれない。しかし、菅野に言わせれば、「性格」とは、『性格』という幻想、『性格』という物語（註 6）ではないのか、ということになる。つまり、重要なことは、「性格」といった概念を一旦捨て、すべてを白紙にして、「自分自身で考えていこう」（註 7）という、いわば現象学的態度にある。私は本書を、現象学的態度の応用による、「世界を変える言葉の創造」の優れた実践例として評価したい。</p>
<p>註<br />
1. 諸富 祥彦（1997）<br />
『カール・ロジャーズ入門』コスモス・ライブラリー、1 頁<br />
2.「78 歳　名物医師早川一光の『説法』『幸せにな る ぼ け 方、 死 に 方 』、 週 刊 朝 日 』、2002 年、12 月 27 日号、133-135 頁<br />
3. 菅野 泰蔵、『カウンセリング方法序説』、日本評論社、2006 年、ii 頁<br />
4. 同上書、142-146 頁<br />
5. 同上書、144 頁<br />
6. 同上書、145 頁<br />
7. 同上書、i 頁</p>
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		<title>【自著紹介】『PTSD とトラウマの心理療法—心身統合アプローチの理論と実践』</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/1148</link>
		<comments>http://transpersonal.jp/archives/1148#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 24 Jun 2009 11:54:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>
		<category><![CDATA[学会誌]]></category>

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		<description><![CDATA[久保 隆司（本学会常任理事）
『PTSD とトラウマの心理療法—心身統合アプローチの理論と実践』
（B. ロスチャイルド著、久保 隆司訳、創元社、2009 年 1 月）

　“PTSD” や “ トラウマ ” という言葉 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>久保 隆司（本学会常任理事）<br />
『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4422114166/transpersonal-22/" target="_blank">PTSD とトラウマの心理療法—心身統合アプローチの理論と実践</a>』<br />
（B. ロスチャイルド著、久保 隆司訳、創元社、2009 年 1 月）</p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4422114166/transpersonal-22/" target="_blank"><img src="http://ec2.images-amazon.com/images/I/41N5Hrgs8qL._SL160_.jpg" alt="4422114166" border="0" /></a></div>
<p>　“PTSD” や “ トラウマ ” という言葉は、皆さんもよく耳にされるのではないでしょうか ? そもそもPTSD（心的外傷後ストレス障害）の症状は、アメリカで 1970 年代以降、特にベトナム戦争によってトラウマを受けた兵士の調査や、主に女性に対する性的暴行などの調査を通じてよく知られるようになり、1980 年に正式な診断名として DSM-III（米国精神医学会 APA の診断基準）に登場したものです。日本では特に、1995 年の “ 阪神・淡路大震災 ”や同時期に起きた “ 東京地下鉄サリン事件 ” などを契機として一般にも浸透しました。</p>
<p>　さて私事ながら、先月、その PTSD とトラウマをメイン テーマにした上記訳本を出版いたしました。</p>
<p>　原著は、この分野でのアメリカのベストセラー書です。内容は邦訳タイトルが示している通りです。副題はケン・ウィルバーのインテグラル理論も多少意識して選びました。PTSD やトラウマに関する本は最近結構ありますが、脳科学の基礎知識から実際の心理治療セッションの具体的なやりとりまで、1 冊の中で書かれているものは、私の知る限り本書だけです。専門書ですが、一般の方にもわかりやすい教科書としても使えますし、ご自身でもすぐに実践できる具体的なエクササイズなどにも触れられています。ということで、少しでも多くの方に読んでいただければと思います。</p>
<p>　もう少し書きますと、本書の基本目的は、様々な “ 橋渡し ” によって、心理アプローチの理論と実践を統合することです。大きくは、1）脳科学・神経生理学等の科学の世界と臨床心理学・心理療法の世界との橋渡し。2）言葉が中心の旧来の心理療法の世界と言葉と非言語の双方を統合して利用する身体心理療法（ボディ・サイコセラピー、またはソマティック心理学）との橋渡し、です。その他は、「訳者あとがき」にも書きましたので、ご購入、または立ち読みにてご覧ください。全国の心理学のコーナーがあるような書店にはたいてい置かれていると思います。</p>
<p>　せっかくのトランスパーソナル学会の Newsletterなので、以下すこし関連のあることを書いてみます。個人的に、私のこの 7 年ほどの関心の中心は『心身統合』です。インテグラル理論でいうインテグラル段階（ティール、ターコイズ・レベル＝ケンタウロス段階）です。なぜならトランスパーソナル領域へと意識が発達していくためには、かならずこの段階を経る必要があることを、ソマティック心理学とウィルバーのインテグラル理論を中心とした研究と実践のプロセスで確信したからです。因みに、この段階を経ない “ トランスパーソナル意識・体験 ” とは、いわゆる変性意識（＝ウィルバーによると、誰でも体験する可能性のあるシフトした意識状態。意識の進化によって獲得できる “ 本来の ” トランスパーソナル意識とは別物である）との混同か、病理的な妄想です。</p>
<p>　それでは心身統合段階へと健全に成長するためにはどうすればよいのでしょうか ? 現実には、どうしてほとんどの人が達成できないのか、また多くの人たちが成長するためにはどのようにしたら良いのかを考える必要があります。私は、この部分に深く関わるパソロジカル（病理的）な側面の探求が重要だと思っています。“ 健常者 ” といえども（いや、だからこそ）、日々、心と身体のアンバランスに悩ませられている方が多いのではないでしょうか。そしてある意味、心身統合の対極にある最も重い（心身分離、解離の）精神障害である PTSD やトラウマ関連の研究が、大きな意味を持つことはごく当然なようにも思えてきます。「光」と「影」の統合によってこそ、本当の意味での『光明』の域（トランスパーソナル領域）に入ることが許されるのではないでしょうか。PTSD とトラウマの知見を深めることで、心身統合のプロセスに関わる実践上の問題点がより鮮明に炙り出されるのではないでしょうか。</p>
<p>　以上のような考えが、本書を翻訳しようとした動機の一部です。日本においても、本書が今後の心身統合に関わる課題の研究—実践の基盤、窓口のひとつとなり、求める方にとって何らかの意味ある一冊であることを願っています。</p>
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		</item>
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		<title>特別寄稿 : 北京五輪柔道金メダリスト石井 慧選手のサポート事例</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/145</link>
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		<pubDate>Sun, 15 Mar 2009 11:45:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[特別寄稿
北京五輪柔道金メダリスト石井 慧選手のサポート事例
～矛盾して対立していた3つの自分を統合～
平本 あきお（本学会理事） 
2006年6月から北京五輪で金メダルをとるまでの2年間、石井 慧選手のメンタルサポート [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>特別寄稿<br />
北京五輪柔道金メダリスト石井 慧選手のサポート事例<br />
～矛盾して対立していた3つの自分を統合～<br />
平本 あきお（本学会理事） </strong></p>
<p>2006年6月から北京五輪で金メダルをとるまでの2年間、石井 慧選手のメンタルサポートを行いました。 </p>
<p>30回を越えるセッションは、大学の道場や千歳烏山にある彼の寮や表参道にある会社の事務所、時にはファミリーレストランや国際電話、そして、北京のホテルなどあらゆる場所で実施してきました。 </p>
<p>毎回毎回まったく異なるテーマを扱いましたが、今回、その中の一つのセッションについてご紹介したいと思います。  </p>
<p>2008年1月、北京五輪の代表選手に選ばれるためには一つも負けることができない試合が続くとても重要な時期に彼の元を訪れたときのことです。東京世田谷にある国士舘柔道部の寮で、彼はこんな事を言い出しました。 </p>
<p>「最近自分の中に3人の自分がいます。</p>
<p>『自分らしい自分』の時以外に、『女々しい自分』や『飼い犬のような自分』が出てくることがあるのです。そして、そのどちらかが出てくるとすべてうまくいかなくなってしまうのです。この足をひっぱる二人の自分をなんとかしたいのです」、と。 </p>
<p>「女々しい自分」が出てくると、もっと戦略を考えないと、もっと筋トレしないと、もっとあれもしないと、これもしないと……となり集中できなくなってしまう。 </p>
<p>「飼い犬のような自分」が出てくると、もっとちゃんと練習しないといけない、指導者の言う通りにちゃんとしないといけない……となり、精神的にどうしようもなく弱気になってしまう。 </p>
<p>つまり、「自分らしい自分」の時は調子がいいけど、それ以外の自分がでてくると、調子が落ちてしまう。この3人の自分が行ったり来たりして、気持ちの起伏がおきてしまい、集中できないと悩んでいたのです。  </p>
<p>そこで、3つの矛盾する自分を統合するセッションを行いました。 </p>
<p>近くにあった椅子を3つ持ってきて、それぞれに「自分らしい自分」、「めめしい自分」、「飼い犬みたいな自分」と記載した紙を置き、それぞれの場所からその自分になりきって、言い合いをさせました。 </p>
<p>「自分らしい自分」になりきって、</p>
<p>「……日本でもない、欧州でもない、自分の柔道しろ!」とか、</p>
<p>「めめしい自分」になりきって、</p>
<p>「……あれもやらないと、これもやらないと……」とか、</p>
<p>「飼い犬みたいな自分」になりきって、</p>
<p>「……言われた通りにしないと……」とか。 </p>
<p>そして、ぐるぐる何周もして充分に言い合いをさせた後に、少し離れたところに移動してもらい、</p>
<p>「一人の人間が、あんなふうに、お互い言い合ってるけど、どう見える?」</p>
<p>と聞くと、彼はこういいました。</p>
<p>「……笑えますね……（笑）」 </p>
<p>そして、さらにこう聞きました。</p>
<p>「『めめしい自分』と『飼い犬のような自分』、この2つの自分がいてくれて助かっている部分があるとしたらどんなこと?」 </p>
<p>すると彼はいろいろ話しはじめて、最終的には</p>
<p>「『女々しい自分』は、実は戦略を練って緻密に相手を研究している自分で、『したたかな自分』だと思います!</p>
<p>『飼い犬の自分』は、実は何を言われてもあきらめない、どんなことがあってもコツコツ努力を続けられる『辛抱強い自分』です!」</p>
<p>というのです。</p>
<p>そしてさらに「自分らしい自分」も「なりふり構わない自分」という風にとらえなおしました。</p>
<p>　「女々しい自分」　→　「したたかな自分」</p>
<p>　「飼い犬の自分」　→　「辛抱強い自分」</p>
<p>　「自分らしい自分」　→　「なりふり構わない自分」  </p>
<p>と見方が変わり、矛盾した対立がなくなりました。 </p>
<p>彼を中心にして私とアシスタントが、彼の周りの3方向から同時に、新たな3つの自分が言いそうな言葉を投げかけます。 </p>
<p>なりふり構わない自分：「俺が石井だ。日本の柔道でもヨーロッパの柔道でもない俺の柔道をするだけだー!」</p>
<p>したたかな自分：「相手を緻密に計算するんだ。すきのない戦略をたてるんだ。」</p>
<p>辛抱強い自分：「なにがあってもあきらめないぞ。コツコツやっていけば絶対に大丈夫だ。」 </p>
<p>3人の自分が同時に投げかけてくる言葉を充分に味わったのち、</p>
<p>「どんな気持ち……、どれか、ない方がいい？」と聞くと、</p>
<p>彼は「イヤ!! 全部必要です!!!」といい、</p>
<p>さらに「自分らしい以外、2つ取ろうか!?」と聞くと、</p>
<p>「イヤ!! 全部残してください!!!」と返してきました。 </p>
<p>そして、その3人の声を聞けば聞くほど、ムクムクと元気に、表情が明るく、体全身にエネルギーがみなぎってくるのがありありと伝わってきました。 </p>
<p>「なりふりかまわず、したたかで、しんぼう強い自分」 </p>
<p>石井選手は「これ、全部大事だ」というんです。</p>
<p>どれも自分であり、「勝つ」ためには必要だと。</p>
<p>そしてネガティブな自分は、消えていました。  </p>
<p>そのセッションの後、彼は海外の大会でも一回も負けることなく試合に勝ち続け、代表選考の最後の大会となる全日本選手権に挑み、そこでも見事優勝し、大方の予想を覆し北京代表の座を手に入れたのです。そしてその後は皆さんもご存知のことと思いますが、北京本番でもすばらしい柔道をして金メダリストとなったわけです。 </p>
<p>なりふりかまわずガンガン攻める時、したたかに計算してポイントを守りきって勝ちにこだわった時、辛抱強さが築きあげてくれた無尽蔵のスタミナで相手を圧倒した最後の2分間。 </p>
<p>北京五輪の石井慧選手の柔道は、統合された3つの自分が見事に本領を発揮した大会だったといえるでしょう。 </p>
]]></content:encoded>
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		<title>自著推薦 : 『手にとるように哲学がわかる本』</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/144</link>
		<comments>http://transpersonal.jp/archives/144#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 15 Mar 2009 11:42:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[自著推薦 : 『手にとるように哲学がわかる本』
かんき出版、2008年刊行、1575円
甲田 烈（本学会理事） 

　「哲学は何の役に立つか」という問い
　旧著以来のご縁から、今年の7月にかんき出版というビジネス書系の出 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>自著推薦 : 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4761265299/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">手にとるように哲学がわかる本</a>』<br />
かんき出版、2008年刊行、1575円<br />
甲田 烈（本学会理事） </strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4761265299/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Bo7NmJjvL._SL160_.jpg" alt="手にとるように哲学がわかる本" style="border: none;" /></a></div>
<p>　<em><strong>「哲学は何の役に立つか」という問い</strong></em></p>
<p>　旧著以来のご縁から、今年の7月にかんき出版というビジネス書系の出版社から、『手にとるように哲学がわかる本』を出させていただきました。</p>
<p>  この本の前身となる旧著の同名『手にとるように哲学がわかる本』が出版されたのが1999年と、もう10年近く前となります。そのときは監修者がつき、共著という形であったために、さまざまな項目を削らなければなりませんでした。とりわけ、2001年の9.11事件を境ににわかに注目を浴び始めたイスラム教文化圏の哲学に対して、当時は注目度の低さから割愛せざるをえなかったのが、今回の執筆過程においては、担当編集者氏から二つ返事で書き加えることをOKされたことなどには、短い時の流れながら、隔世の感を抱くことがあります。</p>
<p>  ところで、その当時と現在とで、「哲学」に対する日本人の一般的評価は、どのように変わってきたでしょうか。正直に考えると、さほど評価が高くなったとも、また低くなったとも言えないように感じられます。まず、日常生活の中で、とりたてて意識しないかぎりは、「哲学」という言葉に触れることはありません。たまさかに目にすることがあったとしても、それは「上司の哲学」や「野球監督の哲学」といったように、会社の人材育成やマネジメントの手法、スポーツにおける選手育成やチームワークの技法といったように言い換えることもできるような、「ノウハウ」か、もしくは「成功哲学」のような怪しげな心理技法が主なものです。もちろん、一口に「ノウハウ」といっても、そこには膨大な技術的知識の蓄積が必要であり、いちがいに否定・軽視することはできません。</p>
<p>  けれども、大学教育の場で哲学を専門にしている研究者に対しても、「哲学って、何の役に立つのですか?」と尋ねられることは、実は多いのです。その背景に、私は「哲学＝実生活に役立つもの」という強固な観念が潜んでいるように感じています。たしかに、哲学には、今まで自分が無自覚に捕われていたようなものの見方・考え方を打ち崩して、新しい生き方や考え方を見いだすきっかけを創るような力がありますが、それはほんの上澄みの効果でしかありません。哲学の真価は、むしろ個々人が、その個々人にとってふさわしい「問い」を見つけ、それを深めていく過程にあるのです。</p>
<p>  そのことは、英語で哲学を意味する“Philosophy”のギリシャ語の語源“Philo-sophia”が端的に示しています。これは知（Sophia）を愛する（philo）という意味で、安易に答えを見つけてそこに安住するのではなく、どこまでも「知を愛し、求める」姿勢を意味しています。日本語でも「哲学」という翻訳語が定着するまでは「希賢学」や「希哲学」という言葉が使われたこともあります。たとえば、「社会学」は社会を研究し、「心理学」は心理を研究する学問だと一目でわかるのですが、「哲学」の「哲」は何を意味するのか、すぐには伝わりにくいものです。そこで、今となってはむしろ「哲学」という訳語よりも「希賢学」の方が、何を対象としている学問なのかがわかりやすいかも知れませんが、賢哲（叡智）を希（こいねが）うということが、哲学という「姿勢」の意味するところなのです。 </p>
<p><em><strong>  歴史の中で「統合」を志向する哲学</strong></em></p>
<p>  さて、『手にとるように哲学がわかる本』では、これまで述べてきたような「問い」の姿勢こそが哲学であることを押さえた上で、古代ギリシャ哲学・中世哲学・近代哲学・現代哲学前期（ニーチェ〜構造主義以前）・現代哲学後期（構造主義以降〜2000年代）・東洋哲学（インド・中国・イスラム・日本）・現代社会の諸問題（環境問題・生命倫理・科学哲学・フェミニズム・臨床心理学・インテグラル思想）というように、時間軸としては古代から現代、空間軸としては東西にわたる惑星上の哲学の流れについて、「通史」という形をとって説明しておきました。</p>
<p>  この本では通俗的な一般書という性格から、たとえばトランスパーソナル心理学の特定の理論やインテグラル思想のような、ある一定の立場から哲学の歴史を眺めるという方法はとっていません。しかし、個々の領域における最新の研究成果に基づきながら、できるだけ西洋と東洋を等価に扱うような観点から、各時代の哲学的な学説の要点をコンパクトにまとめておきました。</p>
<p>  さて、特定の立場からの哲学の紹介に偏らないといっても、哲学の歴史を検討してみると、自ずとそこには共通する特質が浮かび上がってきます。それを一言でいうと、これまでの哲学で、歴史の評価に耐えて生き残ってきたものは、絶えず、さまざまな立場・考え方の「統合」を目指してきたということです。</p>
<p>  具体的に、『手にとるように哲学がわかる本』にも記したいくつかの事例を見てみましょう。</p>
<p>  哲学の発祥の地とされている古代ギリシャ。紀元前6世紀に、ギリシャの植民都市であったミレトスでは、商業が栄え、交易によって世界中の人々や文物が結びついていました。このような社会状況の下で、ある特定の民族が信奉している神話のように、特定の社会集団にしか通用しない世界観によって、人々をまとめ、コミュニケーションを円滑にすることはできません。なぜならば、各民族によって神話の体系は異なり、信じられている神々の名前も異なるからです。この事実に気づいたタレス（前624〜546年頃）は、「万物の根源は何か?」という問いを立て、「それは水である」という答えを示しました。個々の神話に伝えられ、所属する文化圏によって異なる神話による世界創造の物語をあたりまえのものとして信ずるのではなく、異文化の人々にも通ずる形で問いを設定しなおし、「万物の根源」について問いかけたのです。それは、当時におけるさまざまな価値観をもうひとつ普遍的な形で統合する試みだったといえます。</p>
<p>  また、近代ドイツにおける観念論の起点となったカント（1724〜1804年）の哲学について取り上げてみましょう。カントに先立つ時代、西洋では大陸合理論とイギリス経験論という哲学の流れがあり、互いに対立する見解を展開していました。前者は人間に本来備わっている「理性」を重視して、世界に存在する全てのものを合理的に解釈できると考えていました。それに対してイギリス経験論は、人間の知識の根拠は「経験」にあるのであって、私たちを取り巻く外部の世界については、たかだか確からしいことしかわかるものではないと主張していました。片や、万能の「理性」によってすっぱりと物事を説明できるという立場と、もう一方でそんなずばりと説明できるようなものはなく、「経験」による試行錯誤こそが人間の知識の本質だとする立場。カントはこの両者が、部分的には真実を語っていることに気づき、次のように両者の見方を統合しようとしました。イギリス経験論が説くように、人間の知識の根拠は全て経験にあるとはいえません。なぜならば、人間には生まれつきに備わった時間と空間という枠組みがあり、その色眼鏡を通して世界を認識しているからです。例えば、目の前にあるコップは、机の上にある（空間）とか、さっきからある（時間）といったような形で認識されます。「目の前のコップを見る」という経験は、コップそれ自体（物自体）の認識ではないのです。</p>
<p>  そうかといって、一方で理性によって全てが解き明かされるわけでもありません。なぜなら、理性とは時空の色眼鏡でものを見るという感性と、感性によって得られたデータを理解するという悟性の働きを結びつけて、コップなら「コップ」という概念を形作る働きのことなので、「理性」を使うことは人間にできても、「理性」それ自体を認識することはできないからです。理性が理性それ自体を知ることができないとしたら、それは万能とはいえないでしょう。だから、理性にも限界があるのです。</p>
<p>  カントはこのように、大陸合理論とイギリス経験論について、それぞれの長所を認めるとともに短所を補うという形で、「認識批判」を展開したのです。それは、この両者の考え方をより広く深い立場から統合する試みだと言えるでしょう。 </p>
<p><em><strong>  哲学を未来方向から学ぶために</strong></em></p>
<p>  現代に生きる私たちは、さまざまなものの見方や考え方に触れる機会が増えただけ、自分としてどのような価値観をもって生きればよいかということに対して、混乱してしまいがちなのではないでしょうか。そのときに、たくさんの考え方を前にして、「しょせんは人それぞれ」と相対主義的な態度に居直るのでもなく、特定の哲学の学説や心理学の技法、宗教にこだわって「これこそ全て」と狭いものの見方に囚われるのでもなく、自分と異なる価値観や世界観にも開かれると同時に、それらをより広い文脈から意味づけ、それまでの自分のものの見方・考え方をより広く、深いものにしていくためには、歴史上の哲学が取り組んできた「統合」のさまざまな試みは、たしかなヒントを与えてくれます。そのとき、問う姿勢としての哲学ははじめて役に立つのです。</p>
<p>  それと同時に、この『手にとるように哲学がわかる本』を書くために、留意した点がもう一つあります。それは、できるだけ「東洋」の哲学も公平に紹介しようとつとめたことです。章立てとしては全体の一章に過ぎませんが、前著に比して、すでに述べたようにイスラム哲学を加え、インド、中国、日本に関しては現代の動向まで加筆しました。実は、そうしたことには次のような理由があります。哲学史の通史を扱った一般的な啓蒙書を通読してみると、「東洋」の扱いが軽いことに気づきます。もし取り上げていたとしても、たとえばインドにおける仏教の誕生や中国の春秋・戦国時代の諸子百家どまりで、まるで東洋には哲学の歴史的発展がないかのようです。それらが取り上げられた場合でも、今度は「東洋思想」という個別の書物として出され、西洋哲学との連関や現代的意義がわからなくなってしまいます。</p>
<p>  そのようになってしまう一つの原因は、専門的な哲学界の姿勢にあるのではないかと、私は考えています。明治以降の日本の近代化は、ひたすら「西洋」の学問を輸入する方向で試みられてきました。そしてポストモダンの流行以降、とりわけ専門の哲学の領域では「東洋」という概念自体が、ヨーロッパの植民地支配という歴史的背景を持つ言葉で、そうしたことを正当化する「オリエンタリズム」にあたるのではないかと批判されてきました。そのことには一理があり、もはや留保なしに「東洋」という言葉を使うことはできません。そうだとすればなおのこと、従来の「東洋」という固定観念を突き破って、インド・イスラム・中国・日本の哲学からも虚心に学ぶことがあってもよいはずですが、実際はまだまだ、とりわけ日本の哲学研究者たちの目は「西洋」に向きがちです。それに加えて、従来、中国・インド・イスラムなどの古典を研究してきた専門家たちは、細分化された専門領域の中で研究を続けるため、その地域の現代における哲学的動向に対して、必ずしも明るくないことも理由として考えることができます。このことは、「東洋＝古典」という通念にも手を貸してきたと思われます。</p>
<p>  けれども、私たちの生きる現代という時代は、国境の枠を超えた惑星規模の課題にさらされています。環境問題や性差別といった問題は、特定の文化圏に限られるものではありませんし、最近の金融危機によって表面化した経済の問題もまた、地域を越えた資源枯渇とその争奪戦が一因となっていると言えます。こうした惑星規模の課題を目の前にしたとき、もはや西洋・東洋ということではなく、地球規模で物事を考える新しい哲学が必要になってくるのではないでしょうか。この「世界哲学」とでも呼べるものの兆候はすでにありますし、未来の哲学はきっと、現代以上にそうした形をとることでしょう。このような未来方向からのまなざしを持ちながら、過去にも学び、新しい哲学を創っていくためには、東西の叡智を統合する視座が必要になってきます。</p>
<p>  このように、これまでの自分の視野を問い直し、広く、そして深く考えていくための、ほんの入り口やヒント集として、そして哲学そのものの魅力に触れるために、『手にとるように哲学がわかる本』が役に立ってくれることを願っています。そして未来の哲学は、もしかしたらその読者の誰かが創りあげていくものかも知れないのです。</p>
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		<title>書評：惑星の思考 〈9・11〉以後を生きる</title>
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		<pubDate>Thu, 18 Sep 2008 07:59:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>
		<category><![CDATA[No.13 Vol.3]]></category>

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		<description><![CDATA[書評：宮内 勝典著
『惑星の思考 〈9・11〉以後を生きる』
（岩波書店刊、2007年）
小林 真行（本学会常任理事）

　本書は、作家である著者が、2001年から2006年までの間に重ねてきた様々な思索を、断章形式で収 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>書評：宮内 勝典著<br />
『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000257625/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">惑星の思考 〈9・11〉以後を生きる</a>』<br />
（岩波書店刊、2007年）<br />
小林 真行（本学会常任理事）</strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000257625/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/518vHK-mv4L._SL160_.jpg" alt="惑星の思考" /></a></div>
<p>　本書は、作家である著者が、2001年から2006年までの間に重ねてきた様々な思索を、断章形式で収録したものである。どのページから読んでも自然に入っていけるような構成になっているが、終わりまで一読してみて、まるで著者と共に世界中を、同時代の地球を一巡りしてきたような気分になった。</p>
<p>　著者の名前を最初に知ったのは、『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101103119/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">宇宙的ナンセンスの時代 (新潮文庫)</a>』*（教育社刊）が最初であったと思う。これは今から二十年余り前に出版された本だが、NASAの宇宙飛行士や異星との交信を図る科学者へのインタビューを始めとして、ネイティブアメリカンの聖地やオルタナティブなコミューンでの体験、核シェルターへの訪問や古生物学者との対話など、新旧交えた多様な側面に及ぶ内容で、いたく好奇心をそそられたのを覚えている。アメリカ中を駆け巡って書かれたこれらのルポタージュの記録は、今改めて読んでみてもなお色褪せず新鮮であるが、それらの根底にあるのは、これまでに人類が積み重ねてきた意識の営みに対する深い探求の姿勢であり、また、これから人類が向かおうとしている場所を見定めようとする強い意志であった。中でも特に印象に残ったのは、コミューンで暮らす人々と接した後で書かれた次のような文章である。</p>
<p>　「意識革命の世代が中年となり、もしボブのように無言で暮らしているのだとすれば、いまさらスピリットだなんてと居直ってしまった空騒ぎの時代をひっそりやり過ごし、深い呼吸をしながら暮らしているのだとすれば、あの六〇年代は決して仇花ではなかった。いや、ひそかに結実しつつあるのかもしれない。エジプトのピラミッドで発見された蓮の実が二〇世紀になって開花した例だってあるじゃないか」（『宇宙的ナンセンスの時代』、p. 152）</p>
<p>　本書『惑星の思考』においても、著者の問題意識はどこまでも広がっていく。これまで世界中、数十カ国を旅してきた著者は、本書が書かれている間にも折に触れて東京を離れ、北海道から沖縄、あるいはバングラディッシュやブータン、インドといった国外へと移動を重ねつつ、戦争やテロ、環境問題について声を上げ、民族、歴史、宗教、文学といった人間性の根源にかかわる事象を見据えようとする。ここには、この地球という惑星で起こりつつある現実をどこまでも直視することを自らに課し、そこから立ち上げられた数々の骨太な言葉があちこちに散りばめられている。</p>
<p>　「世界はグローバリゼーションへ向かっているように見えるが、そうした趨勢とは逆のことがひそかに起こりつつある。経済的にはグローバル化へ向かいながら、内実は、民族・宗教へ回帰しようとしている。玄関のドアは開いているが、部屋には鍵がかかっている。日本にも、そんなねじれ現象が見えるはずだ」（p. 13）</p>
<p>　「だが奇妙なことに、イスラム神秘主義スーフィーのような少数派、ある種の極限へ近づいていくと、逆に風通しがよくなってくる。異教を拒んでいるようにみえるイスラム教が、至高性において、ほかの宗教とほとんど変わらないこともわかってくる。……（中略）宗教は「文明の衝突」を引き起こしがちであるが、その内的構造の深層まで、極限まで踏み込んでいけば、逆に共存の可能性が生じてくるのではないか」（p. 45）</p>
<p>　「ものを創造するには神と悪魔のひそかな結託が不可欠だ。正しさ、やさしさ、理路だけでは、決してものは生み出せない。闇の奥でらんらんと目を光らせる虎のような力がなければ創造はできない」（p. 164）</p>
<p>　「言葉の力を回復させたいと思う。地上の争いや、この無惨なほどの荒廃ぶりは、言葉の弱りにも原因がある。すべてが繋がっている。言葉の力を甦らせることは、もう笑いごとではなく、わたしたちすべての急務であると思う」（p. 225）</p>
<p>　そうしたずっしりとくる思索を挟みつつも、ある種の懐かしさや暖かさのようなものが読後に感じられるのは、様々な場所で著者が接してきた日常的な風景の描写から、歴史や文化、人々や自然に対する畏敬の念が伝わってくるせいかもしれない。そこには、光も闇も、聖なるものも俗なるものも、そしてそれらの中間に限りなく存在するグラデーションの数々をも、その全てを受け止めようとする深い眼差しがあるように感じられた。</p>
<p>　広く浅くでもなければ、狭く深くでもない、そんな、一見ありそうで実は中々ない本ではないかと思う。</p>
<p>&#8212;&#8212;-<br />
*現在は『鷲の羽根を贈る』と改題（三五館刊）</p>
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		<title>特別寄稿 : スピリチュアルから、現世での成功、そしてフロー・ステイトへ</title>
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		<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 11:40:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[特別寄稿 : スピリチュアルから、現世での成功、そしてフロー・ステイトへ
平本 相武（本学会理事）
生まれは神戸の新開地。「あしたのジョー」のドヤ街みたいなところ。
周りはみんな貧乏で、3畳一間のアパートに一家5人で住ん [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>特別寄稿 : スピリチュアルから、現世での成功、そしてフロー・ステイトへ<br />
平本 相武（本学会理事）</strong></p>
<p>生まれは神戸の新開地。「あしたのジョー」のドヤ街みたいなところ。<br />
周りはみんな貧乏で、3畳一間のアパートに一家5人で住んでいる家族もいた。</p>
<p>実家も風呂なしトイレ共同。家の前にはヤクザの組、パチンコ屋、ソープランド、立ち飲み屋……。毎朝、日雇いの土方労働者がたむろす。<br />
しかし貧しいかもしれないが、街には活気があったし、皆、生き生きとしていた。 </p>
<p>中学1年から新聞配達、その後、レストランのウエイターや居酒屋の皿洗いのバイト。その中で接する、あまり幸せそうでない大人たち～お金持ちの社長や、学者、大企業の幹部～を見て、「何が、人の幸せを決めるんだろう?」そんな問いかけを始める。 </p>
<p>高校時代は、パンチパーマで学ランは刺繍入り、ボクシング・ジムに通うヤンキー。通っていた高校ではそれが当たり前。でも、やっぱり自分は「日本の大学に行って、心理学を勉強したい! 人がよりよく生きる、科学的で体系的な方法を学びたい！」、そう思った。 </p>
<p>しかし、周りの友達からは勉強してるとバカにされ、親からは大学なんて行かずに働けと言われ、しかも偏差値は37。高校3年で「I、my、me」も分からないほど。もちろんお金もない。それでも心理学を学びたい一心で、周囲の反対を押し切り上京し、東京でバイトしながら三浪して大学に進む。</p>
<p>最終的には東大の大学院を修了し、専門学校での心理学の講師、病院やクリニックでのカウンセラーに。「こころ」に関わると同時に、「体」を使うビルの窓拭きの仕事も。本気で「今ここ」を感じたくて、高層ビルでも命綱をつけずやっていた。</p>
<p>＊ </p>
<p>「今ここ」……過去や未来に意識が向いておらず、100%今にいる意識状態。<br />
真っ青に透き通った空のように、思考や考え、頭のおしゃべりがない、この身体の内と外で起こっていることをただ見守っている、瞬間瞬間、今ここに覚醒している状態。 </p>
<p>「今ここ」を追い求め、「幸せとは何か?」の答えを探すべく、16歳の頃からありとあらゆる種類のセミナーに手当たり次第参加した。自分でもセミナーを開催するようになり、当時より人から「その人らしさ」を引き出すのが本気で好きで、命がけでやっていた。 </p>
<p>＊ </p>
<p>仕事をし、そこそこ充実した生活だったが、阪神淡路大震災で両親を亡くしたのをきっかけに米国への留学を決意。シカゴの大学院でアドラー心理学を学びながら、貧民街の小学校やイリノイ州立刑務所でのカウンセラーをしていた。</p>
<p>英会話が得意ではなかったお陰で、言葉以外のボディランゲージや表情など、五感を使ってのコミュニケーション・スキルがさらに磨かれた。 </p>
<p>コーチングや、アンソニー・ロビンスとの出会いに後押しされ、「日本を元気にしよう!」と決意して、2001年9月に米国から帰国。 </p>
<p>手元に10万円のみ、家もないし頼れる親戚もいない。友人の家に居候して、寝袋生活。しかし悲観することはただの一度もなく、「絶対にコーチングで1人でも多くの『その人らしさ』を引き出して、1人でも多くの人を元気にする!」と希望に燃えていた。</p>
<p>というのは、結局、これまで本当の意味で人の役に立っていなかったことに気づいたからだ。現実逃避をやめ、世の中に貢献する。今まで吸収し続けた技術・経験をすべて、これから出会う人のために使おうと一大決心した。 </p>
<p>「どうしたら、より多くの人を幸せに出来るだろう?」<br />
「どうしたら、どんな人間でも絶対に夢を叶えられるという見本になって、皆を勇気づけられるだろう?」そう問い続けた。 </p>
<p>帰国後は、公開セミナーや大手企業の研修の仕事が順調に決まっていき、2年で表参道に引越し、会社設立。 </p>
<p>これは自慢話ではなく、「お金がなくても、コネがなくても、本気でやればゼッタイできる、ということを、身をもってみんなに伝えたい。こんなに貧乏で頭が悪かった自分でもできたんだから、「あなたもゼッタイできる」と。 </p>
<p>人生には、どんな人にも、必ず波がある。どんな会社、どんな人も、生まれてから死ぬまで、ずっと上り調子なんてあり得ない。うまくいかない時期はまず現状を受け入れ、逃げない。必ず、道は開けてくる。その期間は一見つらいが、多くを学べ、大きく成長できるいい機会。うまくいかない時をどう過ごすかで、その後の人生が大きく変わってくる。 </p>
<p>「失敗は学びの機会」だ。 </p>
<p>人は一人一人違う。今の時代、「何が幸せ? どうしたら幸せ?」も一人一人違う。</p>
<p>そんな時代だからこそ、しっかり自分の軸をみつけ、それを精一杯生きてほしい。自分らしく生きていったら、必ず周りの人にもいい影響を与えるし、本当の意味で心から貢献できるようになる。この世に必要のない人なんていない。</p>
<p>みんな、一人一人が自分らしく輝き、しかもお互いに協力しあえる世の中、そんな世の中を確信してほしい。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>自著紹介 : 子どもにいちばん教えたいこと 将来を大きく変える理想の教育</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/140</link>
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		<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 11:38:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[自著紹介 : 『子どもにいちばん教えたいこと 将来を大きく変える理想の教育』
レイフ・エスキス著 菅靖彦訳 草思社
菅 靖彦 (本学会常任理事)

　とても興味深い教育の本を翻訳したので紹介したい。
  月並みな教育書で [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>自著紹介 : 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794216599/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">子どもにいちばん教えたいこと 将来を大きく変える理想の教育</a>』<br />
レイフ・エスキス著 菅靖彦訳 草思社<br />
菅 靖彦 (本学会常任理事)</strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794216599/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Oitg%2B0EUL._SL160_.jpg" alt="子どもにいちばん教えたいこと―将来を大きく変える理想の教育" style="border: none;" /></a></div>
<p>　とても興味深い教育の本を翻訳したので紹介したい。</p>
<p>  月並みな教育書ではない。教育の原点ここにあり、とうならせてくれる本である。いや、教育に限られるわけではない。人を育てる上で、いちばん大切なことは何かを、知らしめてくれる本だといっていい。</p>
<p>  舞台はロサンゼルスのダウンタウンの中心に建つ全米で二番目に大きい公立の小学校、ホバート小学校。毎週のように校内でレイプや虐待が発生し、警官の姿が絶えることのないすさんだ学校である。そこの四年生が学ぶ56番教室で、奇蹟のような教育を行い、次々に優秀な人材を育てあげているのが、著者のレイフ・エスクィス先生だ。今、全米のみならず、世界でもっとも注目されている小学校教師の一人である。</p>
<p>  ホバート小学校に通う生徒のほとんどは、ヒスパニック系やアジア系の移民の子どもたちで、貧困家庭に育ち、英語を第二言語としている。つまり、経済的にも、環境的にも、教育的にも大きなハンディキャップを背負わされているのだ。ところが56番教室の生徒たちは、アメリカの古典文学を次々に読破し、シェークスピアの劇をまったく省略することなくロック音楽に乗せて演じきり、標準テストではこぞってトップクラスの点数を取り、ビバルディの音楽を演奏し、アイビー・リーグの名門大学に次々に進学しているのだ。それだけではない。56番教室の生徒たちは、勉学や音楽に優れているだけではなく、独自の行動規範をもって行動するという高度な倫理観を普段から教えこまれており、エッ、今どきこんな礼儀正しい子どもがいるのと思えるほど行儀良く、親切な人間に育っているのだ。</p>
<p>  レイフがそこまで子どもたちの能力を引き出し、バランスのとれた人間に成長させることに成功しているのは、一つには、「教室を第二のわが家に」というモットーの下、安心して学べる教室作りに専念しているからである。現在の教育の荒廃を招いている原因の一つは、「恐怖」に基づいて教育していることにあるとレイフは指摘する。しかし、恐怖や脅しに基づく教育は一次的に効果があるように見えても、長期的にみれば、荒廃を招くだけにすぎない。子どもたちとの間に信頼を築くことこそ教育の基盤にすえなければならないとレイフは考え、文字通りそれを実践しているのだ。</p>
<p>  そのためにレイフが払っている努力は並大抵のものではない。ニュースデイ紙が「現代のソロー」と呼び、ニューヨーク・タイムズ紙に「天才兼聖者」と言わしめたこの教師は、自分のほぼすべての時間を子どもたちと過ごす時間にあて、正規の授業以外にも、朝六時半からの文法の授業、昼休みのギターの練習、放課後の映画鑑賞など数多くの興味深い課外授業を行い、子どもたちのスキルや学力の向上を手伝っている。生徒に月並みな人間ではなく、秀でた人間になってもらいたい。それがレイフの教師としての願いなのである。</p>
<p>  いろいろな課外授業の他に、レイフが教育効果が高いということで、毎年、実践している大きなプロジェクトがもう一つある。それは、毎年、シェークスピアの劇を一つ選び、十ヶ月かけて生徒たちにセリフを一字一句残さず理解させた上て覚えさせ、完全版のシェークスピア劇を、ロック音楽に乗せて教室内で上演するというプロジェクトだ。それには56番教室の生徒だけではなく、他の教室の生徒も参加でき、先輩や卒業生たちも手伝いにやってくる。つまり、劇製作を通して、レイフは自分がめんどうをみた生徒たちの一大コミュニティを作り上げ、大学への進学や就職のことまで相談に乗ってやっているのである。しかも、毎年、上演される劇は驚くほど完璧なもので、今や、ローヤル・シェークスピア・カンパニーをはじめとする演劇界から注目され、世界各地から観客がおとづれるまでになっているのだ。その功績もあって、彼は全米の教師ではじめてナショナル・メダル・オブ・アート（アメリカ最高の芸術賞）を受賞した。他にもアメリカン・ティーチャー・アワードやダライ・ラマのコンパッション・イン・アクト・アワードをはじめとする数々の賞を受賞している。</p>
<p>　トランスパースナルという言葉は一度も出てこないが、これぞまさにトランスパーソナル教育だと訳しながら思った。是非、ご一読を。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>自著紹介 : 『病をよせつけない心と身体をつくる』</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/138</link>
		<comments>http://transpersonal.jp/archives/138#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 11:28:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://transpersonal.jp/?p=138</guid>
		<description><![CDATA[自著紹介 : 『病をよせつけない心と身体をつくる』
クリステル・ナニ著　菅 靖彦訳　草思社
菅 靖彦（翻訳家） 

　面白いスピリチュアル・ブックを翻訳したので紹介します。読むクスリになるような、非常にさわやかな本です。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>自著紹介 : 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794216246/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">病をよせつけない心と身体をつくる</a>』<br />
クリステル・ナニ著　菅 靖彦訳　草思社<br />
菅 靖彦（翻訳家） </strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794216246/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41PCLKsrUeL._SL160_.jpg" alt="病をよせつけない心と身体をつくる―直観医療からのメッセージ" style="border: none;" /></a></div>
<p>　面白いスピリチュアル・ブックを翻訳したので紹介します。読むクスリになるような、非常にさわやかな本です。人が病気になる仕組みをこれほど明快に解き明かしてくれる本はめったにないかもしれません。</p>
<p>  生粋のニューヨーカーである著者のクリステル・ナニは、直観医療者として、現在、国際的に活躍しているスピリチュアル・ヒーラーです。「直観医療（Medical Intuitive）」とは、人々の病の原因を、その人物の気やエネルギーの状態から直観的に読み取る診断法を指します。この言葉をはじめて世界的に有名にしたのはアメリカ人女性、キャロライン・メイスです。キャロラインは最初、新聞記者として出発し、スピリチュアルな世界とは無縁の生活を送っていましたが、精神的な不調におちいったことがきっかけで、人々の病の原因を直観的に透視できるようになりました。そこで1984年頃から、ノーマ・シーリー博士という神経外科医とタッグを組んで直観医療の技術を磨き、直観医療の科学というものを築き上げていったのです。その結果が『健康の創造：心と体をよい関係にするために』（中央アート出版社）という本になって結実し、世界的な評価を得ることになります。　</p>
<p>　1992年、二人は直観医療の教育プログラムを作り、直観医療者の育成をはじめました。その結果、現在では一万人以上の直観医療者が活動していると言われています。1996年、キャロラインは長年の研究成果を『7つのチャクラ：魂を生きる階段 本当の自分にたどり着くために』（サンマーク出版）という本にして出版し、直観医療という言葉を世界的に広める役割を果たしました。</p>
<p>　著者のクリステル・ナニはキャロラインの教育プログラムで直観医療ができるようになったわけではありません。8歳のとき、突然、自分が透視能力をもっていることに気づいたのです。本書はそのときのエピソードからはじまります。クリステル自身は自分の特殊な能力をうとましく思っていたようです。そこで、彼女は大学で西洋医学を学び、ニューヨークのもっとも忙しい病院の救急病棟で看護婦として働きはじめました。そこで16年間働いたのですが、その間、医師が患者を診断する前に病気とその原因がわかってしまうエピソードが続出したそうです。自分の診断が正しいことは、後の医学検査で明らかにされたと言います。</p>
<p>  本書の前半部分は、子ども時代の不可思議な体験にはじまって、救急病棟の看護婦になり、数々の神秘的な体験をするエピソードが綴られています。それらの体験はまことに興味深いものです。救急病棟は彼女にとって直観医療の技術を磨くための格好の舞台になったのです。</p>
<p>  自分の特殊な能力を最初はうとましく思っていたクリステルも、最後にはそれを一つの恵みをとして受け入れるようになり、人々の癒しのために活用するようになります。直観医療はエネルギー医学や波動医学として語られることもあり、本書の中でクリステルは25以上のケーススタディを取り上げながら、エネルギー医学の観点から見た病の原因、エネルギーを高める方法、エネルギーを枯渇させる信念、思考や感情の身体への影響、情緒的なパターンと病の関わり、乳癌や前立腺癌の引き金となる要素などを分かりやすく解説しています。クリステルが他の直観医療者と大きく異なる点は、直観で病の診断ができるだけではなく、病を癒す力をもっているということです。　</p>
<p>  現在、日本は空前のスピリチュアル・ブームだと言われています。このブームは日本だけのものではなく、世界的なものです。とくにアメリカでは、昨年“The Secret”1という本が発売されたのを機に、Law of Attraction（引き寄せの法則）というスピリチュアルな法則がクローズアップされています。実は「類は友を呼ぶ」というこの法則こそ、直観医療のベースになっていることが、本書を読み進めていけば、分かると思います。</p>
<p>  原題は“Diary of a Medical Intuitive”2（直観医療日誌）。クリステルは現在、個人カウンセリングに加え、ワークショップや講演活動などで、国際的に活躍の舞台を広げています。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>書評　: The Heart of Being Helpful: Empathy and the Creation of a Healing Presence</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/136</link>
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		<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 11:25:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://transpersonal.jp/?p=136</guid>
		<description><![CDATA[書評
Peter Breggin (1997)
The Heart of Being Helpful: Empathy and the Creation of a Healing Presence
NY: Springe [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>書評<br />
Peter Breggin (1997)<br />
<em><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0826102743/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">The Heart of Being Helpful: Empathy and the Creation of a Healing Presence</a></em><br />
NY: Springer Publishing Company<br />
上嶋 洋一（本学会理事、千葉商科大学学生相談室相談員） </strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0826102743/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/4188VNRHDJL._SL160_.jpg" alt="The Heart of Being Helpful: Empathy And the Creation of a Healing Presence" style="border: none;" /></a></div>
<p>　翻訳のない原著。ペーパーバック版で1900円ほどの本とはいえ、手軽に手に取ってみることができる本とは言い難い。その意味では、書評に取り上げる本として不適切かもしれない。ただ、私自身、ここ1、2年で一番興味深く読んだ本であるにもかかわらず、当分翻訳が出る気配はなく、そんな事情もあって、あえて紹介してみたい。</p>
<p>　この著者、ピーター・ブレギン（Peter Breggin）は、精神科医でありながら、向精神薬に頼らない（あるいは用いない）で治療する道を探っている臨床医でありサイコセラピストである。精神科医が薬を使わないで治療しようとする時、その姿は、薬を処方することのできない援助専門職、つまりカウンセラーやソーシャルワーカーの在り方に似てくる。それゆえに、学生相談室の相談員としての私自身の在り方を考える上で学ぶべき点は多かった。同時に、薬に頼らず援助する道を探ろうとする彼の姿勢は、ともすると安易に快を求め苦を避けようとする（森岡 正博の言葉でいえば「無痛文明」の中を生きる）私たちが、少し立ち止まって自分自身の在り方を振り返り、四苦八苦しながらも必死に生きる生き方を励ます人生哲学としての役割も果たしてくれるように思える。しかも彼の主張は、薬物療法という巨大な精神医学の権威に真正面から対峙しているだけに、感傷的なものに堕したヒューマニズムではなく、「強さ」としてのヒューマニズムを感じさせてくれる。彼の主張に対する精神医学界という権威からの、そして製薬業界という巨大企業からの直接・間接の圧力の大きさは、精神分析や行動療法を批判した人間性心理学の比ではないはずだからである。</p>
<p>  ブレギンの取り組みの要点は、およそ次の三つである。第一に、薬物療法に代表される生物学的還元主義への批判、および、こうした生物学的還元主義に対する「健全な懐疑主義（healthy skepticism）」の提唱。第二に、治療の中心に共感的な愛（empathic love）を置くことの提唱。そして第三に、上記二つの考え方と密接な関連を持つ「応用倫理としての心理療法（psychotherapy as applied ethics）」というコンセプトの提唱。本書は、主にこの三つのうち、第二の主張に関わる著作である。</p>
<p>　とはいえ、「治療の中心に共感的な愛を置こう」（p. 175）といった発想の本は巷に掃いて捨てるほどある。またそのような言説には、どこか私たちの側も飽き飽きしている。精神医学界の主流は今や、薬物療法であり認知行動療法なのである。何年後かには、ひょっとすると、傾聴についてのトレーニングなしに、臨床に携わる精神科医や心理療法家が生まれているのかもしれない。ブレギンは次のように言う。「精神科の薬は今や、魂にとってのファーストフードになってしまった。いわゆる対話中心の医者でさえ、薬に頼っている。心理療法家が、知恵の、洞察の、理解の泉であった時代はとうに過ぎ去ってしまった」（p. 63）と。こうした時代にあって、カール・ロジャーズが説いたような、対話や人間関係、さらには「人がただそこにいる（presence）」ということそれ自体が持つスピリチュアルな力を大切にしようとしているカウンセラーやサイコセラピストの存在意義を、カウンセリングの原点に立ち戻って考えてみる視点を、本書は提供してくれているように思える。</p>
<p>　例えばどんなことを言っているのか。</p>
<p>　「人間の本質が社会的なものであるゆえに、他者を育てている時、実は私たち自身を育てているのだ。他者の成長に力を貸す時、実は自分自身の成長を促進しているのだ。他者を援助しようとして自分自身の中に新しい力（心の力、スピリチュアルな力）があったことに気付く時、同時に、私たちは私たち自身の成長と発達を励ましているのだ。」（p. 50）</p>
<p>　「愛というのは、あまりにも安易な解決方法なのではないのか? いや、そうではない。むしろ愛するということは、あらゆる解決法の中で最も難しいものである。一人の援助者としての私はしばしば、自分のこらえ性のなさや欲求不満、そして共感性の足りなさを、自分自身の愛する能力を取り戻すことによって乗り越えようと必死になる。愛すること以外のすべての解決方法こそ（それは精神科での治療から、あからさまな暴力にいたるまで）、はるかに安易な解決方法なのである。安易な解決方法だからこそ、これほどまでに広まっているのである。」（p. 176）</p>
<p>　「治療の中心に共感的な愛を置こう」というブレギンの主張は、ある意味で非常に素朴で、およそ専門家の主張とは言い難いものかもしれない。しかし、その主張が、誰しもの心の底ですでに直観的につかんでいるものであるがゆえに、「援助する側に立つ多くの人たち、セラピストであったり、医師であったり、教師や親や友人も、それを自分なりに修正した形でではあるが、自分たちの中でずっと以前から実践していたことであったと気付く」（ p.9）のである。“あのブレギンの言っていることは自分たちがもうすでに実践していたこと”であったと気付く……それは、私たちにとって新鮮な体験であり、何よりの励ましであり、自分自身の持つ力の豊かさを再評価させてくれる体験であるに違いない。 </p>
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		<title>書評 :   『妄想力』</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/132</link>
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		<pubDate>Mon, 18 Dec 2006 11:21:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[書評 :   『妄想力』
金沢 創 光文社 2006年
菅 靖彦 （本学会常任理事） 

　人間と動物の心の違いは何か? 人間の本質を理解する上で、誰もがぶつかるその疑問に、著者はズバリ「妄想力」だと答える。妄想という言 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>書評 :   『妄想力』<br />
金沢 創 光文社 2006年<br />
菅 靖彦 （本学会常任理事） </strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334975100/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41ZQRTB9BML._SL160_.jpg" alt="妄想力   ヒトの心とサルの心はどう違うのか" style="border: none;" /></a></div>
<p>　人間と動物の心の違いは何か? 人間の本質を理解する上で、誰もがぶつかるその疑問に、著者はズバリ「妄想力」だと答える。妄想という言葉はどちらかというとネガティブな印象を与える。しかし、このユニークな心理学者は妄想のポジティブな側面に注目する。</p>
<p>　たとえば、「石ころを見て、これは包丁にもなるし武器にもなる、あるいは自分を着飾る装飾品にもなり得ると、複数の可能性をとっさに想像」できるのは、「妄想力」のおかげだと言うのである。つまり著者はものごとを多面的に見る能力を「妄想力」として捉え、人類の繁栄の原動力とみなしているのだ。</p>
<p>　これまで人文科学や人類学、心理学といった分野で、人間を動物から分け隔てているのは言葉をもっていることだという主張が繰り返しなされてきた。著者はそれに真っ向から異を唱える。というのも、大切なのは言語を生み出した人間の心の方で、もし物事を多面的に捉える妄想力がなかったら、豊かな言語活動など生まれえなかったからだ。著者に言わせれば、言語活動は心の妄想活動の一環なのだ。</p>
<p>　ところで、他人の気持ちをあれこれ斟酌し、思い悩むのもまた妄想のなせるわざだといっていいだろう。そのような妄想がいかんなく発揮されるのが恋愛だ。著者は丸々一章をさいて妄想ゲームとしての恋愛を軽妙洒脱に論じている。</p>
<p>　興味深いのは人類の発展に多大な貢献をした他人の心を推測する能力を、著者が身体を視覚的に捉える能力に結びつけている点である。他人のしぐさや表情から感情や気分など豊富な情報を読み取る能力を人間はもっており、それが動物と決定的に違う点だというのだ。とくに日本人は視覚情報を読み取る能力に長けていると著者は指摘し、後半で独特の日本文化論を展開している。</p>
<p>　人間の心の最大の特徴は論理的な思考能力にあるというのが通説である。そこにあえて「妄想」という視点を持ち出すことによって、人間の内的宇宙の奥深さを炙り出そうとしているところに著者の独創性を感じる。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>書評 : スピリチュアリティーとは何か</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/130</link>
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		<pubDate>Mon, 18 Dec 2006 11:19:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[書評 ：　スピリチュアリティーとは何か
──哲学・心理学・宗教学・舞踏学・物理学 それぞれの視点から──
尾崎 真奈美・奥 健夫編
（ナカニシヤ出版刊、2007年）
甲田 烈　（本学会常任理事） 

スピリチュアリティ（ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>書評 ：　<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4779500931/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">スピリチュアリティーとは何か</a><br />
──哲学・心理学・宗教学・舞踏学・物理学 それぞれの視点から──<br />
尾崎 真奈美・奥 健夫編<br />
（ナカニシヤ出版刊、2007年）<br />
甲田 烈　（本学会常任理事） </strong></p>
<div class="amazon"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4779500931/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/31rAV3MuOhL._SL160_.jpg" alt="スピリチュアリティーとは何か―哲学・心理学・宗教学・舞踊学・医学・物理学それぞれの視点から" style="border: none;" /></a></div>
<p>スピリチュアリティ（Spirituality）という概念は、トランスパーソナル学にとって最も重要な問題領域のひとつであろう。この言葉はわが国では主に医療現場において、末期患者への心理的援助のなかで用いられていたが、2006年には全国紙にも見られるようになり、医療現場とは異なる巷の「スピリチュアル・ブーム」も相まって、広く一般にも知られるようになってきた。こうした社会的背景により、スピリチュアリティに関しては、社会学・心理学・宗教学などの立場から、2000年代を皮切りにいくつかの論文集が刊行されている。  </p>
<p>本書は、2004年に「スピリチュアリティ尺度研究会」として立ち上げられ、「スピリチュアリティ学際研究会」への改称を経て、現在も「スピリチュアリティ研究会」と改称して継続されている会合における共同研究を基盤とした論文集である。本学会からは、常任理事の井上 ウイマラ・甲田 烈・向後 善之、そして理事の尾崎 真奈美が参加している。以下、読者の便宜のために、各章と担当執筆者名を表記しておく。 </p>
<p>はじめに──スビリチュアリティ学際研究会について<br />
第1章 スピリチュアリティに関する学際的研究の意義──カテゴリーエラーと要素還元主義の克服への挑戦　尾崎 真奈美・奥 健夫<br />
第2章 反転するスピリチュアリティー　甲田 烈<br />
第3章 原始仏教とスピリチュアリティー　大橋 幹夫<br />
第4章 イサドラ・ダンカンの舞踏教育理論とスピリチュアリティー　佐藤 道代<br />
第5章 スピリチュアルな成長の挫折と自己肥大、そしてその危険性について　向後 善之<br />
第6章 スピリチュアリティー教育のひとつの試み──サイコシンセシス ワークをつかった授業より──　田川 亜希子・尾崎 真奈美<br />
第7章 スピリチュアルケア基礎論考　井上 ウイマラ<br />
第8章 心療内科とターミナルケアの臨床を通して見たスピリチュアリテ ィーの発現　井上 眞樹夫<br />
第9章 スピリチュアリティーのモデル化　尾崎 真奈美・奥 健夫<br />
第10章 スピリチュアリティーに関する物理学的考察　奥 健夫<br />
おわりによせて </p>
<p>以上、10編からなる本書の概要をかいつまんで述べてみよう。全体の序論にあたる尾崎・奥の第1論文は、主にケン・ウィルバーによるホロン構造の理論と、対応する領域における学問的アプローチの種別と、4象限図式による各々のアプローチの特異性により、実証科学的方法論と直接経験から得られる知見をともに尊重したスピリチュアリティに関する学際的アプローチの必要性を述べている。甲田の第2論文は「スピリチュアリティ」の定義が論者によって様々であることを概観した後、鈴木 大拙の「霊性」論、ウィルバーの「スピリット」論、西田 幾多郎の「逆対応論」を手がかりに、定義しようと試みるたびに新たな側面を見せる「反転」こそがスピリチュアリティの性格なのではないかと論ずる。大橋の第3論文は、原始仏教におけるブッダの悟りの内容をユング心理学の立場から概観している。 </p>
<p>以上のような理論的考察の後に、佐藤の第4論文以降は実践的・臨床的見地からの考察が続く。佐藤はイサドラ・ダンカンの舞踏理論における古代ギリシャ哲学の影響と、自身の舞踏家としての経験から、身体を通したスピリチュアリティの体現の困難なことについて述べている。向後の第5論文はスピリチュアル・エマージェンシーに対する最新の知見と自身の臨床をふまえた考察であるが、とりわけ精神病の諸症状や神秘体験そのものが、体験者の人間としての優劣に関わり無く生じることに注意を促し、神秘体験においても、その「体験」の解釈への固執が精神的退行をもたらす危険があることを例証している。田川・尾崎による第6論文はサイコシンセシス・ワークを取り入れた大学の授業実践の報告であり、井上の第7論文は、自身のヴィパッサナー瞑想の経験や、遺族へのグリーフ・ケア、そして子育て支援サークルへの参加経験を基盤として、精神分析において説かれる対象喪失に伴う「喪の仕事」と、仏教における自己表象への固執からの解放の過程に平行関係を認めた論考である。井上の第8論文はバッチフラワー・レメディの臨床実践とシュタイナーの理論を背景に、肉体的疾患と精神的苦悩がスピリチュアリティの発現の過程であることを述べている。 </p>
<p>そして、尾崎・奥による第9論文と、奥による第10論文は、スピリチュアリティの心理学的・物理学的立場からのモデル化を試みている。第9論文では個人が心理的・社会的・身体的に健康を増進させていく方向を「真のスピリチュアリティ」としてメンタルヘルスの立場から操作的に定義し、健康を増進させる因子として意志（WILL）・喜び（JOY）・感覚（SENSE）を提示している。また多くの場合は肯定的に評価される超自我（道徳）や気遣いという2因子については、社会的適応に特化される傾向もあることから、真のスピリチュアリティそのものではなく、関連因子であることに注意が促されている。奥の第10論文では、宇宙全体に遍在するプラスの方向・エネルギーを有する情報・エネルギーを「スピリット」であり、その局在化が人間における意識現象であるとする仮説の下、主に1990年代に発展したホログラフィック原理と、光を巨視的量子凝縮体として凍結させるという量子論の理論から、スピリット→意識→生命エネルギーへの情報変換について論じている。 </p>
<p>これまで、本書の内容を概略的に紹介してきた。冒頭に述べたように、2000年以降、スピリチュアリティをめぐる論文集は数多く出版されている。それらはたとえば社会学的な参与観察に基づくものや、臨床心理学に特化した視点による成果である。そのような中で、本書の特質としては、哲学（甲田）、心理学（尾崎・向後・井上・田川）、宗教学（大橋）、舞踏学（佐藤）、物理学（奥）のように、広範な専門領域から執筆者の参加と、各参加者がスピリチュアリティの探求に際して、単なる文献研究や過去の臨床データの参照に止まらず、主体的な取り組みを研究の主軸にしていることであろう。たとえば、甲田は自身のインドにおける瞑想体験を考察の糸口にしているし、奥の考察は物理理論に止まらず、日常的な経験にも定位するものである。こうした観点は本書執筆に参加した臨床家たちにもあてはまることである。スピリチュアリティの研究は、文献学的な研究や臨床データに基づく客観的考察態度はもとよりのこと、主体としての研究者の自己探求・成長に向けた取り組みも必要とされるのではないだろうか。そうした意味では、本書はユニークな位置に立つものなのである。 </p>
<p>しかしながら、そのことは同時に本書が抱える看過し得ない問題点をも浮き彫りにするものである。そのいくつかの点について述べれば、まず尾崎は第1論文でウィルバーの理論に定位した学際研究を提唱しているが、後に続く論者たちのこの観点へのコミットは一様ではない。また尾崎は、第2章以下のレビューを行なっていないため、本書全体は見通しの悪いものになっている。また、この点に関連して、論者たちのスピリチュアリティの定義が一定していないことも、指摘されなければならない。このことの帰結として、個々の論考において独自の視点を含みつつも、関連文献へのレビューの不十分さを露呈する結果になっている。一例を挙げれば、奥は1990年代以降に発展したホログラフィック原理について言及するが、この視点がかつて「カテゴリー・エラー」として批判されたボームによるホログラフィモデルをどのように継承し、かつその問題点を克服しているかということについては言及していない。 </p>
<p>そうした問題点を持つ論文集ではあるが、それは本書の意義を低めるものではないということも付け加えておきたい。諸々の学問が細分化される「専門主義」の時代の中で、科学的方法論と直接経験からの知見を尊重する研究態度は望ましいものであり、とりわけスピリチュアリティのようなわれわれの日々の日常的実践に関わる領域については、研究者や実践者の立ち位置を棚上げにしないことが求められるのである。尾崎・奥が第1論文で「この研究会を通して得られたことは、自己中心性からの解放であり、新鮮な視点に触れることにより、かえって専門性の中での探索も刺激され深まっていくという成果」（p. 15）であったと述べているように、学問においても日常生活においても、自己中心性からの脱却と、自らの未知な領域に対する謙虚さは、困難なことではあるが培い続けなければならないことなのではないだろうか。 </p>
<p>本書は、そうした試みの持つ隘路と可能性について、考えさせるものである。スピリチュアリティ研究の現状と今後の方向性に関心を持たれる方にとっては、触れてみる価値のある一冊である。</p>
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		<title>インテグラル訪問記</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/128</link>
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		<pubDate>Mon, 18 Dec 2006 11:18:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[インテグラル訪問記
久保 隆司(セラピスト:米国バークレー在住） 
2007年の3月22日から25日の4日間、コロラド州のデンバーとボルダーを訪れた。ロッキー山脈の裾野に位置する地域である。ケン・ウィルバーが設立したIn [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>インテグラル訪問記<br />
久保 隆司(セラピスト:米国バークレー在住） </p>
<p>2007年の3月22日から25日の4日間、コロラド州のデンバーとボルダーを訪れた。ロッキー山脈の裾野に位置する地域である。ケン・ウィルバーが設立したIntegral Institute（http://www.integralinstitute.org/）主催のIntegral Leadership in Action（ILIA）の会議と連動したJohn F. Kennedy University（http://www.jfku.edu/）とIntegral University（http://www.integraluniversity.org/）による共同プログラムの集中研修に参加するためであった。 </p>
<p>実はこの地域を訪問するのは、これで3回目である。1回目は2003年の夏にボルダーのケン・ウィルバー宅において2日間に渡って開かれたJohn F. Kennedy University主催のセミナー、2回目は2005年の夏にNaropa University（www.naropa.edu/）で開かれたハコミ会議、そして、今回（2007年春）である。ボルダー地区は、合衆国でも、サン・フランシスコ・ベイ・エリアに次いで、心理療法、スピリチュアリティの盛んな土地といえるところである。今回の当地訪問の最大の目的は、もちろんケン・ウィルバーとの会合であるが、その他に、Suzanne Cook-Greuter博士のワークショップを含むILIAの行事への参加や、全米のみならず、カナダ、オーストラリア、イギリス、アイルランド、スペイン、ペルーなど世界各地から集まった学友との半年振りの再会などである。 </p>
<p>3日間のILIAの会場は、ボルダーのウエスティン・ホテルである。初日の午前中は、Integral Instituteの教員による「アドバンスド・インテグラル理論」の講義。ここでは詳細にふれる余裕も、また、うまく説明できるほど理解もしていないのであるが、ウィルバーの近著『インテグラル・スピリチュアリティ』（2006）の内容が主観比で3倍（?）複雑になった感じである。従来、様々な学者による実証的な研究がウィルバー理論を裏付ける証拠として多く使われてきたが、今回の講義の内容は、最先端すぎて、ウィルバー以外に研究している人がいない! バックアップする研究は30年ぐらいの内には出てくるであろうとのこと。さすがアドバンスというべきか。 </p>
<p>午後からは、ILIAとの共通プログラム。まず一時間半ぐらいかけての自己紹介。参加者は（もちろん会議の趣旨から予測できることではあるが）、コーチング、コンサルティングや教育関係者が多い。百名ぐらいの参加者であったが、アジア人は私ひとりである。参加の条件は、過去にIntegral Life Practice（ILP）など、Integral Institute主催のワークショップに参加したことである。 </p>
<p>午後のメインは、Suzanne Cook-Greuter博士のワークショップ。彼女は、インテグラル理論とも何かと関係の深いハーバード大学の発達心理学で博士号をとったスイス人研究者であり、ウィルバーも度々彼女の発達理論に言及している。インテグラル理論は、ある意味、「スパイラル・ダイナミクス理論離れ」（?）（と言っても、否定ではなく、良く理解・吸収することは非常に大切ですが、万能的な理論としては扱わないということです。誤解なきよう!）の最中でもあるので、今後、インテグラル・コミュニティ内では、彼女の発達モデルがもっと注目を浴びるのかもしれないなどと想像した。さて、このワークショップでは、分かりやすく各発達段階についての説明がなされ、また企業などの組織変革への応用の成功例と失敗例などの紹介が、助手の人からなされた。最後の方では参加者が小グループに分かれて、文章完成法（Sentence Completion Test）に基づく発達段階のクイズをする。個人的には、“Individualist”（スパイラル・ダイナミクスのグリーン段階に相当）と呼ばれる段階の説明が自分にはしっくり来たが、今回はこの段階以降の段階についての解説は無かったので、最適なものかどうか詳しくはわからない。現時点で自分が最も興味ある発達段階が、この段階から始まるケンタウロス段階でもあることも、関係しているのであろう（尚、このテーマの拙論を近々JTAの研究誌に掲載予定です）。 </p>
<p>24日の土曜日は、昨晩から続く小雨模様である。ウィルバーを新居に訪問する待ちに待った日である。3年弱ぶりの再会となる。ボルダーの住み慣れたロフトから、デンバーの新しいロフトへの引越し作業がほぼ終わった頃のようである。ご存知の方も多いであろうが、昨年の12月に（持病からくる）突如の発作でウィルバーは危篤状態になり、デンバー市内の病院のERに担ぎ込まれ、死線を彷徨った。ウィルバーの最大の理解者であるロジャー・ウォルシュも当日の全ての予定をキャンセルして急遽駆けつけるほどのかつてない危機的状態であった。実はこの2日後に、私を含むインテグラル理論学科の学生とウィルバーとの電話会議が予定されていた。もちろん会議はキャンセルになったのだが、替わりに、ほぼリアル・タイムでウィルバーの病状がこちらに伝わってくることになった。しかし、絶望的な状況がますます明らかになるばかりである。当時、私たちにできることは祈ることでしかなく、自主的に昏睡状態のウィルバーへのメッセージを皆で書くことになった。これらは、ウィルバーに渡されたはずである。この4日間に渡るコーマ状態からの奇跡的な回復からまだ間も無いのに、今回、私たち20余名のために時間を割いてもらい、ひたすら感謝である。</p>
<p>さて、エレベーターの扉が開くと、写真スタジオ風の空間の中に、うつむき加減のウィルバーの右後頭部が、ごく自然な感じで、突如視界に入ってきたので、思わず息が止まる。打ち合わせが終了したばかりのようで、ウィルバーは椅子に座り、長身の体を折りたたむように前屈みになって、ノートに何か（図?）を書くことに集中していた。ウィルバーは元気である。といっても今まで以上に、健康管理には気を配らないといけない。免疫機能を下げる病魔に侵されているため、風邪を引いている人は面会できない。私は、人前では（前日から）咳をひとつもしないように気を付けた。今後しばらくは、健康上の問題から、彼が外に出る機会は減るだろうが、電話・ネット等での外部との接触は従来どおり続くと思う。 </p>
<p>健康面では非常に深刻な問題を抱えているとは言え（もっとも、ウィルバー自身によると、昏睡状態を含む身体的な麻痺状態になる機会に恵まれているおかげで、瞑想の時間として有効活用できるとのことであるが）、彼の力強いトーク、ユーモアには些かの変化もなく、笑いにも溢れ、楽しくも密度の濃い時間を共有することができた。ウィルバーは12月下旬の自身のブログに、喋ることに後遺症が残るかもしれないと書いていたように記憶するが、幸いなことに全くの杞憂であったようである。それどころか「臨死体験」を経て、ますます自らの使命に確信を持ち、力強くなったかのようである。また、個人的にも、直接質問の機会も持つことができ幸せである。三年ほど前、ボルダーで初めて面会した時は、私にとって、ウィルバーは、眩い太陽であり、直視することは危険ですらあったが、今回は月のようであり、皆をやさしく包んでくれているようであった。個人的には前回の面会とは違った意味で非常に感慨深い。</p>
<p>最初に、ウィルバー（東芝製のプラズマ大画面テレビを背に、素足にローファー、ジーンズ姿でチェアに座る）は、「何でも聞いてくれて結構である。インテグラル理論についてでも、個人的な悩み事の相談でも、全てウェルカムだ。」と来訪者の私たちに言ってくれた。彼の心遣いが感じられた。最初の質問者のSの質問が、コスモス三部作（第一部は、“Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution”、邦題は『進化の構造』）の第二部の抜粋Gに見られる微細体（subtle body）や転生（reincarnation）に及んだことや、また、前述の12月の体験もあり、結局、全体の七、八割ぐらいは転生関係の話となった。ウィルバーは、光のトンネルとかも見たが、もちろん事前にわかっていることなので、確認しただけで、そちらには行かず下っていくことにした（云々）と自らの体験を語った。 </p>
<p>また、ウィルバーは、トランスパーソナル段階が非常に大切なことはいささかも変わらないとも述べた。しかしながら、大衆の意識段階において最も進んでいる社会のひとつである合衆国においてでさえ、人口の大部分（8割以上）は第二層（Second Tier：ケンタウロス＝ビジョン・ロジック段階に相当）どころか、グリーン段階にすら達していない。また、合衆国では、残念ながら、いまだに「生まれ変わり」を認める人は全体から見ると非常に少ない。このような現状下では、自分の著書で「転生問題」に関し積極的に言及することを、あえて避けてきたとウィルバーは述べた。「生まれ変わり」を強調しすぎると読者の半数が離れる可能性があり、現時点では、まず少しでも多くの人がインテグラル段階の社会への移行をする手助けをすることの方が人類にとって急務であり、「転生」の受容を求める必要はないからである、と。また、仏教にしたところで、アメリカ仏教の多くは、いわゆる「団塊世代症の仏教」（Boomeritis Buddhism）である。本来、仏教の基本は「無我」のはずなのに、逆に「私」の悟りに固執する「有我（?）」のものなってしまっているのは非常に残念であると語り、何も今生の内に全てを悟ろうとする必要は無いのだが、と付け加えた。 </p>
<p>私も機会を得、関連するトピックとして「異種間における魂の転生問題」について質問したが、ウィルバーに「ウォー、アメリカでは、その質問はイリーガル（非合法）になっている」と冗談めかして言われ、盛り上がった。また、ロンドンから来た学友のNは、「あなたは、また生まれ変わってくるのですか?」とケンに尋ねた。ウィルバーは「イエス」と短く答えた。最後に、ウィルバーの後頭部を拝みながらの集合写真を撮った。こうして私たちの3時間あまりの会見は楽しく無事に終えることができた。 </p>
<p>さて、ILIA会議に関しては、その他に、禅の修行僧だったDiane Hamiltonによる“Big Mind”（米国人禅僧Dennis Genpo Merzel老師の開発した禅の問答やヴォイス・ダイアログなどを組み合わせた自己探求の手法で、ILPの代表的なもの）や、インテグラル・セラピストであるWillow Pearsonの講演など、様々なイベントがあったことを付け加えておく。“Big Mind”に関しては、受けるのが三回目でもあったせいか、または私には（日本人には?）合わない部分があるのか、友人たちが語るほどには感激しなかった。その翌週もボルダーでは引き続き「インテグラル・禅」や「インテグラル・ボディワーク」などの集中ワークショップが開かれたが、私は他の予定があり、少し早めにサン・フランシスコへの帰途に着いた。 </p>
<p>今回の訪問の最大の収穫は、言うまでもなく、この眼でウィルバーの元気な姿を確認できたことである。単純に、ウィルバーのような人物と同時代に生まれ合わせた私たちは非常にラッキーであると思う。彼には少しでも長生きしてもらいたいと切に願う。もしJTAの会員の中で、ウィルバーの本をあまり読んだことの無い方がおられたら、もったいないので、是非とも一度手にとって見て欲しい。例えば、『存在することのシンプルな感覚』（春秋社）は、ウィルバーの様々な著作からの抜粋集であるが非常に入りやすいと思う。 </p>
<p>最後になるが、ウィルバーは、人生において大変な逆境にも会っているが、それを決して否定的に捉えず、常にユーモアを忘れず、自然体で肯定的に捉えて先に進んでいる。このような彼の真摯な姿勢にあらためて非常な感銘を受けたことを記してこの訪問記を締め括りたい。</p>
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		<title>映画『不都合な真実』に寄せて</title>
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		<pubDate>Mon, 18 Dec 2006 11:11:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[映画『不都合な真実』に寄せて
笠置 浩史（本学会常任理事） 
　元アメリカ合衆国副大統領で、『地球の掟：文明と環境のバランスを求めて』（小杉 隆訳、ダイヤモンド社、1992）の著者としても名高いアル・ゴア（Albert  [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>映画『不都合な真実』に寄せて<br />
笠置 浩史（本学会常任理事） </strong></p>
<p>　元アメリカ合衆国副大統領で、『地球の掟：文明と環境のバランスを求めて』（小杉 隆訳、ダイヤモンド社、1992）の著者としても名高いアル・ゴア（Albert Arnold Gore, Jr）。彼が出演し、地球温暖化問題についてのスライド講演をまとめたドキュメンタリー映画『<a href="http://www.futsugou.jp/" target="_blank">不都合な真実（An Inconvenient Truth）</a>』は、数多くの映画賞を受賞し、高く評価されている。アカデミー賞（最優秀長編ドキュメンタリー賞および最優秀オリジナル歌曲賞）を受賞したことは記憶に新しいだろう。</p>
<p>　私がこの映画に関心を持ったのは、本学会常任理事の鈴木 規夫氏による紹介がきっかけであった。氏の言葉を借りれば、「たくさんの人に『体験』してほしい作品」。鑑賞してみて、私もまったく同様の感想を持った。まさに「体験」と呼ぶにふさわしい〈気づき〉が誘発される作品である。</p>
<p>　アル・ゴアは、1960年代後半から地球温暖化の問題に関心を示し、研究を深め、そして警鐘を鳴らし続けてきた。彼は2000年の大統領選敗北の後、多くの人に生の声で温暖化問題を伝えるべく、各地でスライドを用いた講演を行う。その講演の内容が、ほぼそのまま映画の内容となっているのであるが、ここで提供される情報自体は、さほど目新しいものではない。多少なりともエコロジーに関心を持つものにとっては、ほとんどがすでに知られた事実であろう。しかしながら、その見せ方があまりにも巧い。軽快なテンポ、適度なウィットで飽きさせない。何より、多くのデータ・情報を紹介しつつも、決して価値観を押し付けていない。「あなたはどう考え、いかに生きるのか」という問いに満ちている。</p>
<p>　思うに、価値観が揺さぶられるような〈気づき〉とは、決して教え込まれて成るようなものではない。単なる知識の習得にとどまるのではなく、それを自分自身の問題として実感的に受け入れること。腑に落ちる体験。こうした〈気づき〉を促す要素が、『不都合な真実』には溢れているように思われる。すなわち、伝える内容だけでなく、その伝え様。語り手であるゴア氏自身が、環境問題を真に自身の課題として引き受けているという、その在り様。彼の存在そのものが、作品を観るものに訴えかけるのである。</p>
<p>　地球環境の問題を自己自身の問題として引き受けるということは、「できるかぎり拡張された自己感覚を現世で獲得すること」（フォックス、1994、p.259）にもなろう。アイデンティティが、個を超えて人類、生態系、地球環境、ひいては宇宙にまで拡がることは、エコロジーのひとつの究極のかたちといえるだろう。また、温暖化という地球規模の危機は、国や人種を超えて、時代に共有されている。このような問題に取り組むことは、個人を超えて、惑星規模で人と人との精神的なつながりを生むことにもなるだろう。私たちひとりひとりは小さな存在かもしれないが、個を超えてゆくこともできるのである。</p>
<p>　ハチドリの物語をご存知だろうか。燃えている森で、動物たちが逃げ惑うなか、1羽の小さなハチドリが水のしずくを1滴ずつ運びながら言う。「私は、私にできることをしているだけ」（辻、2005、p.10）と。</p>
<p>　私にとっての1しずくとは、何なのだろうか。『不都合な真実』は、ひとつのヒントとなるに違いない。多くの人に、超個的な〈気づき〉を体験していただきたい。 </p>
<p><strong>参考文献 </strong><br />
アル・ゴア（枝廣 淳子訳）『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/427000181X/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">不都合な真実</a>』ランダムハウス講談社、2007<br />
ワーウィック・フォックス（星川 淳訳）『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582702171/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">トランスパーソナル・エコロジー―環境主義を超えて</a>』平凡社、1994<br />
辻 信一（監修）『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334974910/transpersonal-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">ハチドリのひとしずく いま、私にできること</a>』光文社、2005</p>
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		<title>特別寄稿：瞑想のピアニスト ウォン・ウィンツァン</title>
		<link>http://transpersonal.jp/archives/123</link>
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		<pubDate>Mon, 18 Dec 2006 11:07:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tatsumi</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュースレター]]></category>

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		<description><![CDATA[特別寄稿
瞑想のピアニスト ウォン・ウィンツァン
李 栄子 
瞑想のピアニスト、ウォン・ウィンツァンさんをご紹介したいと思います。
ウォンさんとの出会いは、2004年にウォンさんのコンサートを主催させていただいたのがきっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>特別寄稿<br />
瞑想のピアニスト ウォン・ウィンツァン<br />
李 栄子 </strong></p>
<p>瞑想のピアニスト、ウォン・ウィンツァンさんをご紹介したいと思います。</p>
<p>ウォンさんとの出会いは、2004年にウォンさんのコンサートを主催させていただいたのがきっかけでした。ウォンさんの奏でる音楽は心の深遠に響き渡り、毎回コンサートで弾いてくださるインプロヴィゼーション（即興）は、まさに魂からの贈り物のように心が安らいでいくのをいつも感じていました。これこそ言葉でないところのトランスパーソナルな世界を音の世界で奏でている方だと感じていました。ぜひ、学会員の皆さまにもウォンさんというピアニストの素晴らしさを知っていただきたいと思い、Newsletterでご紹介させていただくことになりました。静かな音色を奏でるウォンさんではありますが、お話をすると気さくで飾らない人柄でとても素敵な方です。ぜひ、一度ウォンさんの音楽に触れていただきたいと思います。</p>
<p>お忙しい中、原稿を書いていただいたウォンさんに、心から御礼申し上げます。 </p>
<p><strong>変性意識と演奏行為<br />
<a href="http://www.satowa-music.com/index.html">ウォン・ウィンツァン</a>（Wong Wing Tsan）</strong></p>
<p>私のような一介の音楽家が、トランスパーソナル学会という学際色の強いNewsletterへ、いったいどんな文章が書けるのか、依頼をお受けしてからしばらく悩んでおりました。</p>
<p>ようやく思いついたテーマは「変性意識」と「演奏行為」との関連についてでした。</p>
<p>「超越的な意識」と「音楽」、とりわけ「演奏行為」との間に深い関連があることを、音楽家としての体験の中に見いだしておりますので、そのことに関しては多少なりとも書けることはありそうな気がします。しかし皆さんがご興味を持って読んでいただけるようなものが果たして書けるものなのかどうか、書き出した今も若干の不安を抱えております。</p>
<p>もとより学者でも思想家でもありませんので、「論」としてまとまった文章など書けませんので、その時々の体験的なダイレクトなリポート程度のものにならざるを得ないことをお許しいただきたく思います。また、これらの内容はあくまで私という音楽家の個人的な体験に依拠するものであり、一般論として通用するものでないこともお知り置きください。</p>
<p>まあ、一人のクライアントの独白程度にお読みいただければ幸いです。</p>
<p>20代の前半、私は「ある特定の音楽（演奏）に、強い求心力を感じる」体験をします。</p>
<p>それは、それまでに音楽に感じてきた体験とは違うものでした。嗜好とか、趣味とか、音楽を楽しむとか、あるいは音楽にエンターテインされるとか、それらとは質的に異なる体験でした。そして「感動」とも位相が違うと感じました。ある音、ある音楽が際立って聞こえてくる。私の聴覚を捉えて放さない、どうしても聴いてしまう。何か感性とは別の次元にアクセスしてくるような体験でした。そのような「何かの力」がある特定の音楽に内在していることをリアリティーを持って感じはじめたのです。</p>
<p>私はこのような主観的にしか感じることができない「音楽の力」が、如何なるもので、如何なる処からやってきて、如何に獲得することのできるものなのか、私なりの探求が始まります。それは、それらのリアリティーの由来に音楽の最も根源的なものがあり、これから追い求めていく自分の音楽の本質に大きく関わることを直感したからですが、しかしながらそのリアリティーが果たして確かなものなのかどうか、自信なり確信なりがあった訳ではありませんでした。時代は折しも、思想的には実存主義やポストモダニズムが台頭し、世の中的には大量消費経済の高度成長を謳歌していました。そのような時代の気分に逆行するような「本質的なるものの探求」は、「幻想の探求」で終わる可能性は充分考えられました。頼りは自分のリアリティーだけと云った感じでした。</p>
<p>まず、わたしは様々な音楽を聴きながら峻別してく作業を始めます。峻別することによって、そこから何らかの共通項を導きだせるかもしれないと思った訳です。そこで判ったことはジャンルやスタイルには関係がないということでした。それがクラシックであろうと、ジャズであろうと、ロックであろうと、民族音楽であろうと、演歌であろうと関わりなく、ある特定のアーティストたちの、ある特定の演奏に「それ」を感じたのです。そのアーティストが有名か無名かも関係ない。かつてバリ島に旅行した時、ホテルの庭の片隅で演奏しているスーリン奏者の一吹に「それ」を感じとり、驚愕したことがあります。また、同じ曲にも関わらず「それ」を感じる演奏と感じない演奏がある、すなわち作曲ではなく「演奏」によって「それ」を宿らすことができる。演奏行為にこそ何かの秘密があるということが、ようやく解ってきます。さらに、それが演奏技術というものともあまり関わりがないことが解ってきます。どんなに技術的に優れていても、ただただ表層を滑っているような空疎演奏を耳にすることがなんと多いことでしょう。しかし明らかに稚拙な技術しかない演奏者でも、時に「それ」が宿ることがある。「それが宿ることがある」と云う意味は、奏者がそれを求めていようがいまいが、「それが宿るときがある」と云うことなのです。求めていようが、いまいが、それが宿る時もあり、宿らない時もある。どんなに求めても、そのリアリティーは実現しない。にもかかわらず、ある時、不意にそれはやってくる。私の探求は錯綜と迷妄のただ中をさまよいますが、年に一二度、自分の演奏に不意にやってくるリアリティーだけを頼りに、執拗に追い求め、しかし年月だけが経っていきました。</p>
<p>少なからず解っていることは「演奏時の意識の状態に深く関わっている」と云うことでした。しかし、その意識状態をどうしたら再現することができるのか。当時、最も安易に意識状態を変革する方法としてのドラッグと云うものを見ずに先に行くことは出来ませんでした。私が最も影響を受けたジャズアーティスト、マイルス・デイビスを初め、多くのアメリカのアーティストが薬物を多用していました。アメリカ音楽をドラッグ抜きに語ることは出来ないでしょう。しかし、ドラッグは両刃の剣で、大きな代償を払わなくてはなりません。多くの有能なアーティストが、人格破綻を起こし、最後は地獄を這いずり回り、短い命を散らしていきました。</p>
<p>さて、私の探求は15年以上になるにもかかわらず、さらに混迷し、身体的にも精神的にも、もう先行かない程のっぴきならない事態になっていました。そんなときに友人から得た情報と書店で見つけた本から、あるヨーガ系の瞑想法に出会います。私は当時、合理主義者で宗教と云うものに理解力は持っていませんでしたが、かといって「言葉」や「思想」「論理」と云うものにも強い失望感を持っていました。あらゆる方途を試し尽くしてだめだった訳で、残るはギブアップしかありませんでしたから、たとえ怪しくとも、ともかくやるしかないと云うのがその時の心境でした。その瞑想法を体験して一番最初に思ったことは、年に一二度だけでも不意にやってくる演奏時の意識状態に酷似している、と云うことでした。それから毎日、瞑想を練習する中で、演奏は日々変化をしていきます。瞑想を始めて10ヶ月程たった頃、2週間の集中的な瞑想合宿の中でインド最古の教典ヴェーダを吟唱するパンディエットのビデオを見せられます。そこには彼らが瞑想状態で吟唱しているのが映っていました。吟唱は単なる読経ではなく、まさしく音楽そのものとして、例の「ある求心力」をもって深く私の胸中に入ってきました。それは私に瞑想状態で音楽を演奏することが可能であり、その時にこそ求め続けていた「リアリティー」を実現することが可能なのだと言うことを教えていました。「瞑想状態で演奏する」ことが私の音楽の方法になった瞬間でした。瞑想状態がなぜ音楽にある求心力を呼び起こすのか、そのメカニズムを明確に解っている訳ではありません。ただ言えることは瞑想状態、あるいは変性意識状態では自我の統制が緩むと云うことはあると思います。統制や抑圧が緩み、奥底に眠る情動やインスピレーションやイマジネーションがダイレクトな形で表出し易くなるのかもしれません。ここで「表出」という言葉を使ったのは、それが内発的なものであるからです。「表現」がある恣意的な人間の意志による「行為」であるに対して、それはむしろ自動的に現出するような印象があるのです。しかし、瞑想状態、変性意識状態であるなら、演奏はそれだけで「リアリティー」を獲得できるのかと云うと、決してそうではありません。演奏中「音を聴く」こと、すなわちフィードバックすることが実は最も重要と思われます。しかも、それは単に「聴く」ということでなく、むしろ「視る」と云うことに近い感じがします。音楽は時間の経過の中でしか成立しません。画家がキャンバスの全体を視ながら色彩やフォルムを的確に描いていくように、演奏者は「時間を視る」ことができなければ、望んでいる場所に望んでいる音律を描くことができるはずがありません。演奏と云う時間の流れの中で、次なる一音をどこにどのように描くのか。「音」→「聴覚」→「脳」→「演奏行為」→「音」というフィードバック回路のなかで、瞬時に、そして連続的に、決定され続けていくのが演奏行為です。たとえそれが既成の曲で、音の並びが決まっていたとしても、次に演奏される一音が、どのタイミングで、どれだけの音量で演奏するかは、その時その時の瞬時に決定されていきますし、瞬時にしか決定されないのです。その「決定」が「どうなされるか」、つまり人間という全体的な存在のどの部分がそれをどう成すのかが、その演奏にいったい何が宿るのか、と云うことになる訳です。「演奏」と云うものは演奏者の意識の状態がそのまま刻印されていると言えます。そしてその奏者の意識状態は、オーディエンスに同じような意識状態を再体験させる、と思われます。つまり、「決定」が「高次」である時、それはオーディエンスの「高次」に働きかけることができると云う「仮定」が私の音楽の理念になっています。情動や情念と云った内的なものを解放すること、「音」→「聴覚」→「脳」→「演奏行為」→「音」という強靭で高速なフィードバック回路を確立すること、音楽的時間と云うキャンバスを俯瞰すること、そして一音一音の決定を「高次の何か」にゆだねること。演奏時に変性意識状態を保つことによって、以上のようなことを可能にします。勿論、変性意識状態で演奏する為には、日々の瞑想と演奏の修練は欠かせません。冒険家が未踏の地に憧れ続けるように、アーティストもその性として新しい地平を追い求めます。しかしながら、21世紀、現代では芸術表現は閉塞状態にあります。20世紀に「表現」は開発し尽くされ、解体され尽くされ、今や新しい未踏の地を見つけるのが困難になりました。しかし霊的存在としての人間には「意識の成長」という個別的な未踏の地を内包していることを、トランスパーソナル心理学が私たちに教えるところです。「意識の成長」という冒険のプロセスで、その都度その都度、音たちがどのような振る舞いを見せてくれるのか、オーディエンスとの間に音楽がどのようにあり得るのか、それを享受することが音楽家としての私の喜びです。</p>
<p>さて、演奏行為と云うあまりにも非言語的な体験の文章化は、言葉に置き換えることのもどかしさと、何か抜け落ちているような不全感を伴いますが、普段音楽に関わりながら漠然と考えていたものを分明化し、再確認にもなり、意味のある作業となりました。以上の文章が、皆さんのお心に留まることを願いつつ、終わりたいと思います。ありがとうございました。</p>
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