特別寄稿
「被災地大島の危機対応」
向後 善之(日本トランスパーソナル学会 事務局長)

10月に、トラパ東北支部の石垣 美幸さんに案内していただき、宮城から岩手の被災地に行ってきました。

いずれの被災地も、3月11日の東日本大震災後7ヶ月以上経っているにもかかわらず、未だに津波の傷跡が生々しく残っていました。例えば、気仙沼では、津波に加え、石油に引火して町中が火災に見舞われるなどの大きな被害を受けたので、あちこちに傾いたり大きな穴があいたり焼け焦げている建物が残っておりました。気仙沼港付近にはたくさんの水産加工場があるのですが、その多くが使用不能の状態でした。

その気仙沼も、私たちが次に訪れた大島が防波堤の役割を担ったため、現状の被害にとどまったとのことです。大島がなければ気仙沼の被害がもっと大きくなっていたと思われます。

私達は、気仙沼からフェリーに乗り、大島に行き、そこで、地元の方々のお話を聴くことができました。

大島は、津波が気仙沼市側からと太平洋側から同時に襲ったため、島が一時二分されたのだそうです。次の日の朝、亀山と言う山の上から島全体を眺めると、津波が襲った経路がはっきりと分かりました。その部分だけ一直線、緑が全くないのです。

さらに、気仙沼の火事が飛び火して山火事になりました。例えば、燃えた発砲スチロールが引き波で流れ着くことによって、木々に引火するということがありました。火は次々に飛び火しました。亀山と言う島の最高峰の山があるのですが、ロープウェイは焼け焦げ、頂上にまで火が伝わり、頂上の松の木の何本も焼けました。一時は、危機的な状態になったのです。

その際、島民が一丸となって火を消し止めました。指揮は、消防団がとりました。みごとな指揮と連携プレーだったのでしょう。奇跡的なことだと思いますが、あれだけの津波と山火事がありながら、死者行方不明者は3000名あまりの島民のうち31名だったのだそうです。

大島在住の気仙沼市議の菅原さんのお話では、被災してからすぐに壮年~青年を中心に、「ばか隊」という組織ができ、被災者の救援、遺体の捜索、どろだし、がれきの撤去などを効率的に行っていきました。「ばか隊」というのは、「自分たちが被災しているにもかかわらず、復旧に向け、率先して行動するなどということは、ばかにしかできない」という意味で、菅原さんが名付けたそうです。しかし、「『ばか隊』はあまりにひどかろう」ということで、「お」をつけて少し丁寧に「おばか隊」と呼ぶことになったのだそうです。

津波の傷跡は生々しく残っていますが、大島は、とてもきちんと整備されていました。これは、「おばか隊」の活躍が大きく寄与していると思います。

今回の地震と津波後の大島の島民をあげての相互協力の在り方をまとめると、
1)大島の復旧復興は、状況を熟知している地元の人達(「おばか隊」)が指揮している。例えば、全国から集まったボランティアは、地元の人達の指揮下に入っているため、有効に活用されている。
2)さまざまなスキルを持った人達を有効に使うことができている(島民の人口が3000人と言うこともあり、だれがどのようなスキルを持っているのかがわかっていた)。
3)お互いだれがどういう状態かをよく知っているので、高齢者や障害者など、援助が必要な人を被災発生直後にすばやくサポートすることができた。

と、なるかと思います。

こうした大島の対応は、危機対応の見本ともなるものではないかと思いました。