書籍紹介
『文書術:読みこなし、書きこなす』
工藤 順一(著)
中央公論社

鈴木 規夫
(本学会副会長)

トランスパーソナルという学問においてもっとも誤解されている主張のひとつに、「個であることを超越することができるまえに、個でなければならない」(“You have to be somebody before you become nobody” – Jack Engler)というものがある。個を超越した意識を創発させることができるまえに、個としての意識を確立する必要があるという主張である。
ここで留意すべきことは、このことばが必ずしも西洋的な自我を確立することが必要だと主張しているわけではないということである。そこで意図されているのは、あくまでも、自己を対象化して観察・探求できるだけの十分な内省力をそなえた自我を確立することが重要であるということであり、ある特定のスタイルの自我を特権化しているわけではないのである。人間の意識が深化するとは、既存の自己を対象化できるもうひとつの自己を確立するということである。あえていえば、そこで強調されているのは、自己をつきはなして客観的に観察・探究できるほどに強靭な自己を確立するということなのである。その意味では、個としての意識を確立するとは、紛れもなく自己中心性を減少させていくことであり、また、自己の強度を高めていくということなのである。
このことを無視してしまうと、当然のことながら、上記の主張は、あたかも「西洋的自我」を美化するものであるかのように誤解されてしまい、結果として、不毛な論争が生み出すことになる。実際、トランスパーソナル・コミュニティにおいても、数多くの関係者が、そうした誤解にもとづいた論争に巻き込まれてしまい、もっとも本質的な問題を忘れてしまうという残念な状況が生じている。即ち、「トランスパーソナル」とよべる意識を確立するための基盤となる「人格」とは具体的にどのような自己対象化能力(内省力)を有しているのか、そして、それを確立するためには具体的にどのような実践にとりくむことができるのかという問題が無視されてしまっているのである。
こうした状況を観察しながら、個人的にとりわけ危機感を覚えるのは、人格の発達の過程において「ことば」というものが果たす非常に重要な役割にたいして、総じて認識が希薄であるということである。結局のところ、自己を対象化して内省する作業とは、ことばの支えなしには不可能である。個としての基盤を形成することの重要性を軽視することは、不可避的に我々をことばにたいして無頓着にさせることになるのである。つまり、「言語能力」の発達が人格的成熟と緊密に関連するものであることが軽視・無視されているために、「個」としての意識構造を涵養するための重要な方法――しかも、それはもっとも身近なところにあるものである――をないがしろにしたままに放置してしまうことになっているのである。
こうしたことを鑑みるとき、今、トランスパーソナル・コミュニティにおいてもっとも緊急に必要とされているのは、個としての人格的成熟を確実に実現するための方法を確認することであろう。このことは、トランスパーソナルというとりくみが「非日常的意識状態」を意識の変容の重要な触媒として位置づけるものであるがゆえに、とりわけ重要となる。強靭な人格構造を欠いたところで、膨大な量の心的エネルギーが関与することになるそうした非日常的体験を追及することは、深刻な自我肥大を惹きおこすことになるからである。

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日頃こうした問題意識を抱いているためか、普段、「識者」とよばれるひとたちの発言を聞くとき、わたしは基本的に2つのことに留意してその価値を判断している:

• 単なる意見や見解を主張するのではなく、聞き手が実際に実践することのできる具体的な「型」(practice・praxis)を呈示していること
• 発達論的な視点にもとづいていること(人間が根本的に変化・成長する存在であることに留意していること)

市場には実に膨大な数の「文章術」や「思考術」の書籍が陳列されているが、不思議なことに、上記の2つの基準をみたす作品はほとんど存在しない。その大多数は、個人的な体験にもとづいて著者が自身の思想や哲学を披瀝した独白か、あるいは、「魅力的」な文章を書くための技術(technique)を紹介したものに過ぎない。「ことば」という人間としての根源的な営みについて、それが人間にこの世界と関係をもつということを可能にする根源的な基盤であることを認識したうえで――それこそが発達心理学の核にある洞察のひとつである――実践的な観点から読者に語りかけようとする作品がほとんど存在しないのである。
こうした貧困の中で異彩を放つのが、工藤 順一(http://www.kokusen.net/)氏の一連の著作である。工藤さんは長年にわたって小学生を対象にして日本語の読み書きを教えてこられた在野の教育者であるが、この最新著作では、これまでに蓄積した知見を「再編集」して、大人のための文章術を呈示している。
そこで呈示されている方法は、非常に斬新なものであるが、同時に非常に古典的なものであるともいえる。そこには、文章を書くということが、本質的に文脈を共有しない不特定多数の他者にたいして意思疎通を図る行為であるという前提のもと、そのためには、自身の個人的な感覚や体験そのものを内省して、それをもうひとつの「目」をとおしてとらえなおす自己対象化の能力が必要となることが明確に認識されているのである。
先述のように、人間の意識の発達の過程とは、自己中心性の減少の過程である。即ち、それは、文脈を共有しない他者の存在と視点を認識して、それにむけて自己の視点を適宜包装して届けることができるための自己対象化の能力が高まっていく過程であるといえるのである。単純化していえば、発達とは、そのようにして意思疎通できる文脈の種類を拡張していく過程なのである。そうした原理は、発達という旅程をとおして一貫して息づくものであり、「発達段階」に関わらず、自己を深化させようとするときに、我々が必ず直面するダイナミクスである。
工藤さんは冒頭で次のように述べている。

長い間、私は小学生に作文を教えてきました。ところが、想定していなかったことなのですが、近年。ぜひ社会人向けに文章作成法のようなものを書いてほしいという相談が持ちかけられるようになりました。今まで必死で子どものための教材を作ってきたつもりなので、当初、私はこれに戸惑い、何も書けないままでいました。しかし悩みつつ、これまで作ってきたプログラムを総点検し、再度、角度を変えて考え直してみると、そもそも文章を書くことの基本や原理については、大人も子どももないのではないかと思い当たるようになりました(p. v)。

発達(意識の拡張)という一生の旅の端緒に就いたとき、人間は、その後、自らが直面することになる課題や試練を克服するための方法の元型を「型」として授けてもらう必要がある。それは、意識の発達という「死と再生」の過程を経験するうえでの羅針盤として機能しつづけることになるものである。その意味では、確かにそこには「大人も子どももない」のである。
言語をとおして、われわれは、時空間をこえて、異なる文脈の中に置かれている他者と対話をする能力を獲得することになる。その画期となるのは、いうまでもなく、工藤さんのいう「話し言葉」から「書き言葉」に移行するということであるが、その移行の核心にあるのは、「自己」と「他者」の両方を包含することのできる包括的な視点を確立するということである。我々の日常において、多数の人々があたりまえのように実践している、この意識の拡張の意味を正確に把握することは、さらなる拡張と深化の果てにあるトランスパーソナルな意識にむけて自己を導いていくうえで必須の条件となるだろう。
「言語化」(自己の体験にことばをあたえること)という意識の発達を触媒する重要な能力を鍛錬することは、ときとして混沌と混乱をきわめる変容の過程の中で我々を崩壊の危機から救ってくれることになる。霊性(spirituality)には、他者としての絶対者と関係を営むという、2人称的な側面が存在しており、それは、自己の主観的な混沌に耽溺しているとき、そうした状態から我々を目覚めさせ、救出してくれるものとなる。自己の内部に他者を抱擁して、その存在が醸成する不協和音を許容しつづけることは、健全な霊性を維持するためにも、必須の条件となるのである。ことばをつむぐという行為をおして自己を他者と世界に開くとき、我々は本質的には自己をの啓示に開くための基礎を習得しているのである。
本書には、個としての自己を確立するということが、ことばをつむぐということと不可分に結びついているものであること――そして、それが最終的にはに至るための基盤であるということ――に関する重要な洞察が豊穣に息づいている。個をこえることを志す人々にこそ熟読していただきたい良書である。