過去数年のあいだに出逢った映画作品のなかでも、とりわけ衝撃を受けた3本の作品を御紹介したいと思います。作品の鑑賞後に感想をまとめていましたので、それらをここで御紹介させていただきます。

“Ghost in the Shell: Stand Alone Complex”

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最近、こころから満喫することのできた映画がある。

「攻殻機動隊」というアニメーション作品である。

といっても、押井 守の監督した劇場用作品ではない。

神山 健治の監督したTV用の作品である。

“Ghost in the Shell: Stand Alone Complex”という題名で製作されたもので、2期にわたって放映されたものである。

第1期と第2期を合わせると、合計20時間以上にもなるが、全く退屈することなく、存分に満喫することができた。

押井氏の監督した劇場用作品が、実質的には、知的自慰でしかなかったのにたいして、神山氏の監督したTV用作品は、娯楽作品としての責務を果敢に受け留めることをとおして、最終的には、自己をそれ以上のものに昇華することに成功した稀有な作品として完成されている。

過去10年程のあいだ、日本映画の復興ということが声高に喧伝される時代がづいた。

しかし、個人的には、そうしたなかで脚光と賞賛を浴びる監督たちの作品を鑑賞するたびに、実際には、状況は正反対なのではないだろうかという観想をいだいてきた。

確かにありきたりの娯楽を提供するという「商業映画」としての責任を確実に果たす作品は存在するのだが、しかし、それをこえた「志」の息づきを実感させてくれる作品というのがまるでないのである。

同時代の現実と対峙することを拒絶して、恣意的につくりあげた箱庭的な空間のなかでの人間の凡庸な生態をえがくだけの自閉化した作品がいかに多いことか。

果たして膨大な資源を投資して製作するに値するものなのかと思わせるような凡庸な作品の奔流を観察していると、日本映画は実際には急速に地盤沈下しているのではないかという印象をいだかざるをえないのである。

確か、ある有名な映画監督は、雑誌の特集記事のなかで、今日においては、もはや「敵」としてたちむかうべき対象は存在しないのだというようなことを発言していた。

しかし、それができないのは、己の感性が鈍感であるからではないのか?――思わず、そんな反論をしたくなるほどに、こんな無恥な発言をしてしまう監督の矮小さに愕然としてしまう。

新世代の監督らしく、このひとは、いちおう苦悩の仕種をすることはだけはうまいのだが、実際には、今日のPostmodern的な思想的雰囲気のなかに安逸することのできる凡庸な監督にすぎないのであろう。

しかし、自己の対峙するべき課題や問題を見いだすことができないというこうした慢性的な精神の弛緩と麻痺というのは、このひとだけでなく、今日の「復興」を支えている監督たちの大多数を特徴づけているものなのではないだろうか……。

こうした感慨をいだいていただけに、“Ghost in the Shell: Stand Alone Complex”という作品は非常に意外であった。

作品の脚本は、神山氏の統括のもと、数人の脚本家の共同作業をとおして練り上げられたものだそうだが、SFという媒体を十全に活用しながら、同時代の課題や問題をひるむことなく採りあげようとするこころいきが感じられるのである。

今日において、悪の存在は、極限まで肥大化して、ひとびとの集合意識を茫漠とした無力感の支配のもと腐敗させている。

そうした腐臭を漂わせるまでに悪化した同時代の頽廃を直視することの決意――“Ghost in the Shell: Stand Alone Complex”という作品には、そんなこころざしが脈々と息づいている。

そうしたこころざしを見事な娯楽作品に結晶化させたことの価値は多大なものがあると思う。

これほどまでに胸の高鳴る作品と出逢えたことに感謝したい。

現代は真の意味の能力が要求される時代なのだと痛感する。

これまでは、苦悩をするフリをすることで自己の誠実さの証とすることが許容される(とりわけ「知識人」にとり)幸福な時代がつづいてきた。

しかし、今、われわれの目前で無数の危機が顕在化するなかで、こうした態度が意味をなす時代は確実に終焉しようとしている。

Alfred North Whiteheadの研究の世界的権威であるDavid Ray Griffinは、“Postmodern”といわれるものが、結局のところ、ひとつの思想的雰囲気でしかなかったと指摘している。

自己の拠り所とするべきものが次々と脱構築されていくなかで、自己の機軸とするべきものを見出すことができず、それゆえにその空間のなかで苦悩することを自己の存在の機軸としようとする態度――そうした姑息な態度が誠実さの証であるとのたまうことのできた暢気な時代は確実に終焉しようとしている。

それは歓迎するべき時代の変化であるといえるだろう。

しかし、そうした時代の潮流に適応することができるためには、苦悩という閉塞した怠惰の循環を断絶して、自己の全存在を賭して価値を体現する実存的決意が必要となる。

これは、自己の人間としての深層的能力を鍛錬することなしには、為しえない行為である。現代に於いて必要とされる能力とは、こうしたものなのだろう。

The Dark Knight

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数年にいちど、藝術作品を鑑賞しながら、その藝術媒体がこの世界に存在する存在意義を実感することがある。

そもそも世界に音楽というものが存在する本質的な意味を実感させてくれる演奏――そんな特別な演奏というものが実際に存在することをわれわれは体験的に知っている。

そこに息づいているものが演奏者の個性であることは間違いないのだが、そうした瞬間において、実際にわれわれ聴衆が感応しているのは、そうした個性を通してあらわにされるその藝術媒体そのものの本質的な意味と価値である。

クラシック音楽の関連雑誌にはしばしば過去の伝説的な演奏会について特集が組まれるが、それはそこに集うた聴衆がそうした超越的な体験を共有したことの証左なのであろう。

そうした体験はわれわれを根源的に活性化させる。そして、こころの糧として時間を越えてわれわれを支えつづけてくれる。

個人的には、人間が藝術に求めるのは、そんな感動なのではないかと思う。

クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督の「ダークナイト」(“The Dark Knight”)という作品はそんな魅力をそなえた作品である。

前作の「バットマン・ビギンズ」(“Batman Begins”)も非常に見事な作品であるが、この続編はそれをあらゆる意味において凌駕する。

驚くべき作品である。

このシリーズを貫く主題は「人間の本質的な性質としての善と悪の葛藤」ということができるだろう。

前作は、汚濁と腐敗の蔓延する世界を「破壊という浄化」をとおして救済しようとする狂的な救済思想にたいして主人公ブルース・ウエイン(Bruce Wayne)が拒絶をつきつける「選択の物語」であった。

そして、また、それは、師匠をのりこえる物語であると同時に世界を受容する決意をする主人公の慈愛(Agape)の物語であった。

この主題は非常に今日的な主題である。

狂信的な新興宗教の行動に典型的に観られるように、この世界を救済するためには、一旦、徹底的な破壊を通して浄化しなければいけない(“destroying the world to save it”)という救済思想は非常に根強く人々のこころをとらえている。

しかし、自己の信奉する特定の楽園像のもとに世界を浄化しようとするとき、人間は不可避的に救済の美名のもとに破壊と殺戮に荷担する悪魔的存在になる。

そのことは、歴史的に無数の革命思想や宗教思想のもたらした凄惨な悲劇が証明しているところである。

そうした浄化思想の誘惑と対峙して、最終的に世界を抱擁し、また、世界と対決することを決意する主人公の魂の旅――それが“Batman Begins”という作品である。

“The Dark Knight”は、そうした選択をした主人公が直面するあまりにも過酷な試練の物語である。

敵役として登場するJokerは、主人公にたいして残酷な問いを衝きつける。

――慈愛のもとに抱擁した世界が本質的に汚濁と腐敗に特徴づけられるものであるとしても、尚、人間と世界にたいする信頼を維持することができるのか? 愛する者を奪われ、希望の糧を奪われ、そして、迫害されても、尚、そんな無慈悲な世界を抱擁しつづけることができるのか?――

それは、そんな問いである。

善と悪とは人間存在の生地そのものであり、人間は常にそのせめぎあいのただなかに生きざるをえない。また、人間の構造的な無知と蒙昧は、そうした人間の危うさをますます増幅させることになる。

Jokerは、主人公にたいして、人間の悪の可能性(corruptibility)を徹底的に衝きつけようとする。

最終的には、主人公は、愛をなすということが、自己を敢えて傷つけ、そして、汚すことであるという悲劇をひきうける決断を迫られることになる。

それは、主人公が自己の「善」にたいする執着を断ちきり、「悪」をひきうけること――即ち、この世界における救済を断念するという絶望の決断をすることにほかならない。

“The Dark Knight”という作品の魅力と凄みとは、こうした人間の実存的な問題と正面からとりくむその誠実さと胆力にあるのだと思う。

今日、国内において、われわれが直面する最も深刻な問題のひとつは、こうした普遍的・実存的な課題と対峙・格闘する活力を集合規模で喪失していることである。

今日、人々があまりにも純朴に癒しという救済を求めてやまないことは――そして、そうした飢餓感に呼応するかのように、感覚的な治癒と救済を約束する魑魅魍魎が跋扈していることは――実は空恐ろしいことなのである。

そうしたありかたは、人間存在というものが構造的に悪の可能性を内蔵した存在であることを拒絶しようとする逃避的な精神を露呈するものであるが(c.f., Ernest Becker)、それは必然的に人間の暗闇にたいする基本的な洞察を欠如させた愚鈍な感性を蔓延させることになる。

そして、それは、例えばカール・ユング(Carl G. Jung)の喝破するように、無意識という無知・無恥を氾濫させることをとおして、悪を増幅することになるのである。

今日、われわれは、自己を傷つけ、そして、汚すことにたいしてあまりにも潔癖であることを称揚する、幼稚な正義感の蔓延する空間に生活していることを認識する必要があるのだろう。

そこでは、肥大した自意識の虜になった個人が舞台のうえで脚光を浴びることに汲々としている。

舞台のうえに居続けるためには、清廉潔白であらねばならない。もちろん、失言などは絶対にしてはならない(このところ、政治家の「失言」を巡る大衆の対応は異常に過敏なものであるが、そこにあるのは、こうした実存的な脆弱化がもたらした抑圧と投影なのであろう)。

そこにあるのは自己の暗闇に恐怖して、自己を浄化するための「探求」や「治癒」に脅迫的にとりくむ慢性的な不安なのではないだろうか。

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、真の救済というものがあるとすれば、それは暗闇と深淵のなかに見出されるものであると指摘する。

しかし、今日、われわれが懸命にとりくんでいる「救済」のこころみは、それが暗闇と深淵を拒絶するものであるがゆえに、益々われわれの苦悩を悪化させ、そして、われわれの活力を減退させている。

暗闇を駆逐しようとするそうした心性こそが自己の存在をますます浸食しているのだということを今われわれは認識しなおすべき必要があるのではないだろうか。

「八甲田山」

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1977年に劇場公開されたこの作品は、戦後の日本映画の黄金期を支えた傑出した映画人が集結して完成させた最後の作品のひとつということができるだろう。

周知のように、この後、日本映画界は急速に矮小化して、「零細産業」へと没落していくことになる。

今日の多数の映画人を特徴づける、卑小な「個」の世界に埋没した視野狭窄は、こうした作品を創造した世代が引退していくなかで、支配的なものとなり、今日まで映画芸術を呪縛することになる。

黒澤 明を起点として、この作品に参加した世代(橋本 忍・野村 芳太郎・森谷 司郎等)に継承されてきたのは、端的にいえば、「天」の視点から人間をとらえることのできる垂直的な感性である。

換言すれば、それは、「悲劇の感性」ということができるかもしれない。

真の意味で人間が自己の器と対峙するのは、悲劇のただなかにおいてであることは、時代をこえて、変わらない。

しかし、そのことを忘れるとき、われわれは不可避的に「人間の視点」に埋没して、運命を生きる根源的な活力を剥奪されていくことになる。

この奇跡のような作品を鑑賞しながら、こうした偉大な作品を創造する感性が僅か数十年前にはまだこの国に息づいていたことを知り、いたく感銘した。

そして、打ちのめされた……。

芸術という営みは人間の集合的な生命力を最も端的に象徴するものであると思う。

今、何処を見廻しても、この作品を創造した激しく逞しい生命力や創造性は見あたらない。

そのことは議論の余地のないほどに明白である。

時間の流れは人間の盛衰の模様を無慈悲なまでに明瞭に露呈させる。

僅か30年前の作品であるのに、そこに刻印されている人間の質はあまりにも異質なものである。

それは、あらゆる意味において、高く、深く、大きい。

実際、この作品に息衝く生命の奔流は、今日のわれわれにとり、あまりにも異質なものである。

それは異国のものとさえ思えるほどである。

そのことは、この数十年のあいだに、われわれが集合規模で喪失したものが実に大きなものであることをいやがうえにも実感させる。

そのことに打ちのめされたのである。

その意味では、今日、日本においては、「何か」が終焉しようとしているのではなく、「何か」が既に終焉したのである。

今、われわれにできるのは、そうした荒涼とした荒地にあらためて垂直性という生命の息衝きを育むことなのであろう。

しかし、その荒廃が徹底的なものであるとき、生態系はその持続可能性そのものを剥奪されてしまうことになる。

果たして、日本文明という、この疲弊した生態系には恢復の可能性はあるのだろうか……?

この作品を鑑賞したあと、世の男性諸氏は、所謂「リーダーシップ論」や「組織論」を打ちたくなるのだそうだ。

しかし、個人的には、むしろ、いまだわれわれ日本人を呪縛する心性についてあらためて考えさせられた。

具体的には、それは「徳」といわれるものの内実についてである。

物語には、八甲田山の踏破をこころみる2つの部隊を統括する二人の主人公が登場する(高倉 健と北大路 欣也が見事な演技を披露している)。

共に人徳にあふれた卓越したリーダーとして描かれているが、また、同じ「徳」といわれるものであっても、二人のあいだには決定的な違いがあることに気づかされる。

普通、日本的な感覚では、「徳のある」人物というのは、関係者の多様な意見を尊重して、それらを統りまとめて組織を統括していく鷹揚さをもつ人物であるといわれる。

正にそうした徳を体現するのが、北大路演じる神田大尉である。

そして、皮肉なことに、その人徳が彼の部隊に壊滅的な悲劇をもたらすことになるのである。

他方、高倉演じる徳島大尉は、それとは――微妙な違いではあるが――対極的な種類の徳を体現する人物として描かれる。

徳島大尉は、この踏破計画が死と隣合わせのものであることを認識して、その認識と覚悟を共有することができるよう、徹底的に部下を律するのである。

斥候中、部隊が山里を訪れるときにおいても、徳島大尉は、そうした生存を保障する規律感覚を維持するために、軍隊としての「型」を遵守することに固執する。

そこには、神田大尉の鷹揚さの対極に位置する、積極的な頑固さといえるものがあるわけだが、しかし、視聴者は、それこそが最終的に部隊の生存の可能性を保障する必須条件であることを感得して、それが紛れもない慈愛と叡智に支えられたものであることを認識する。

それは、明確な判断の基準や境界を設定することをとおして、関係者の行動を統括する厳格なリーダーシップであり、日本的な感覚では、むしろ、「人徳」の正反対にあるものと見做されがちなものである。

しかし、それは、死(破局・破滅)の可能性をすぐそこに感受するという統括者としての資質と責任に裏付けられた、真の意味での責任感覚のあらわれである。

作品はそのことを非常に明確に浮かびあがらせている。

死という最悪の可能性を想起して、自己の行動を律していくという、認識と秩序に関る課題は、われわれ日本人にとり、今尚、巨大な「壁」として存在していることを痛感する。

日本人の鷹揚さというのは、しばしば、こころのひろさとして誤解されがちである。

また、時には、それが、あらゆる視点や立場の本質的な正当性を認識・尊重する統合的な認識能力のあらわれであると短絡的に解釈されがちである(何とオメデタイことであろうか!!)。

しかし、実際には、それは、むしろ、死という実存的な現実と慢性的に乖離するときに醸成される精神的な去勢と虚勢でしかない。

換言すれば、共同体内に波風をたてることなく、全ての利害関係者の気持ちを荒立てないようにしようとする臆病と狡知のあらわれということができるだろう。

例えば、思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)が「ビジョン・ロジック」が(Vision Logic)という概念で主張する統合的な認知形態は、そうした心性とは相容れないものである。

むしろ、それは明確に「真」・「善」・「美」という価値にたいするコミットメントに支えられた活動であり、そこには垂直性の実現に自己の存在を奉じる強靭さと頑迷さがある。

それは罷り間違っても「誰もが正しい」などと自己陶酔することではないのである。[*1]

実際、こうした鷹揚さは、「清濁併呑む」等の御都合主義的なことばのもと正当化され、実質的に共同体の集合的な秩序を溶解する破壊的存在の温存に――少なくとも消極的に――寄与することになっている。

少数の勇敢なジャーナリストが指摘するように、この国の統治機構が自己の利権を温存することに汲々とする官僚組織・宗教団体・暴力団等の「特殊利益団体」の影響下にあることは周知の事実である。

そうした同時代の危機と本質を認識する最低限の感性があれば、そうした美辞麗句と自己陶酔に逃避することなどできるはずはないのである。

問題は、そうした同時代の腐敗にたいして敏感であるべきひとびとが――彼等の多くは自己を垂直性の擁護者であると自任している――その責任を放棄しているということである。

彼等は「鷹揚さ」という「人徳」に隠れて、保身に淫するが、それは垂直性にたいする責任を放棄したときに成立する自己と他者と世界にたいする背任でしかない。

今、必要とされるのは、成熟の条件として、われわれが自己と他者に求める徳の質を改めることなのではないだろうか。

そんなことをこの「八甲田山」という傑作を鑑賞しながら思った。

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[*1] KWの“Boomeritis”にたいする批判的な考察を冷静に検討すれば、こんな誤解は生じようもないのだが、現実には、インテグラル思想、あるいは、トランスパーソナル思想の研究や実践に専門的にとりくんでいる多数の関係者がこうした致命的な間違いを冒している。そうした国内の状況を俯瞰すると、ウィルバーのインテグラル思想をはじめとして、「統合的」であることを標榜する思想について勉強をしようとするとき、そうした思想の研究者・紹介者が、しばしば、それを自己の心性の正当化のための道具として横領している可能性にたいして警戒する必要があると警告せざるをえないのである(例えば、これは、林 道義博士が洞察するように、ユング思想が国内に輸入されるときに生まれた誤解や曲解と同種のものである)。