特別寄稿:瞑想のピアニスト ウォン・ウィンツァン

特別寄稿
瞑想のピアニスト ウォン・ウィンツァン
李 栄子

瞑想のピアニスト、ウォン・ウィンツァンさんをご紹介したいと思います。

ウォンさんとの出会いは、2004年にウォンさんのコンサートを主催させていただいたのがきっかけでした。ウォンさんの奏でる音楽は心の深遠に響き渡り、毎回コンサートで弾いてくださるインプロヴィゼーション(即興)は、まさに魂からの贈り物のように心が安らいでいくのをいつも感じていました。これこそ言葉でないところのトランスパーソナルな世界を音の世界で奏でている方だと感じていました。ぜひ、学会員の皆さまにもウォンさんというピアニストの素晴らしさを知っていただきたいと思い、Newsletterでご紹介させていただくことになりました。静かな音色を奏でるウォンさんではありますが、お話をすると気さくで飾らない人柄でとても素敵な方です。ぜひ、一度ウォンさんの音楽に触れていただきたいと思います。

お忙しい中、原稿を書いていただいたウォンさんに、心から御礼申し上げます。

変性意識と演奏行為
ウォン・ウィンツァン(Wong Wing Tsan)

私のような一介の音楽家が、トランスパーソナル学会という学際色の強いNewsletterへ、いったいどんな文章が書けるのか、依頼をお受けしてからしばらく悩んでおりました。

ようやく思いついたテーマは「変性意識」と「演奏行為」との関連についてでした。

「超越的な意識」と「音楽」、とりわけ「演奏行為」との間に深い関連があることを、音楽家としての体験の中に見いだしておりますので、そのことに関しては多少なりとも書けることはありそうな気がします。しかし皆さんがご興味を持って読んでいただけるようなものが果たして書けるものなのかどうか、書き出した今も若干の不安を抱えております。

もとより学者でも思想家でもありませんので、「論」としてまとまった文章など書けませんので、その時々の体験的なダイレクトなリポート程度のものにならざるを得ないことをお許しいただきたく思います。また、これらの内容はあくまで私という音楽家の個人的な体験に依拠するものであり、一般論として通用するものでないこともお知り置きください。

まあ、一人のクライアントの独白程度にお読みいただければ幸いです。

20代の前半、私は「ある特定の音楽(演奏)に、強い求心力を感じる」体験をします。

それは、それまでに音楽に感じてきた体験とは違うものでした。嗜好とか、趣味とか、音楽を楽しむとか、あるいは音楽にエンターテインされるとか、それらとは質的に異なる体験でした。そして「感動」とも位相が違うと感じました。ある音、ある音楽が際立って聞こえてくる。私の聴覚を捉えて放さない、どうしても聴いてしまう。何か感性とは別の次元にアクセスしてくるような体験でした。そのような「何かの力」がある特定の音楽に内在していることをリアリティーを持って感じはじめたのです。

私はこのような主観的にしか感じることができない「音楽の力」が、如何なるもので、如何なる処からやってきて、如何に獲得することのできるものなのか、私なりの探求が始まります。それは、それらのリアリティーの由来に音楽の最も根源的なものがあり、これから追い求めていく自分の音楽の本質に大きく関わることを直感したからですが、しかしながらそのリアリティーが果たして確かなものなのかどうか、自信なり確信なりがあった訳ではありませんでした。時代は折しも、思想的には実存主義やポストモダニズムが台頭し、世の中的には大量消費経済の高度成長を謳歌していました。そのような時代の気分に逆行するような「本質的なるものの探求」は、「幻想の探求」で終わる可能性は充分考えられました。頼りは自分のリアリティーだけと云った感じでした。

まず、わたしは様々な音楽を聴きながら峻別してく作業を始めます。峻別することによって、そこから何らかの共通項を導きだせるかもしれないと思った訳です。そこで判ったことはジャンルやスタイルには関係がないということでした。それがクラシックであろうと、ジャズであろうと、ロックであろうと、民族音楽であろうと、演歌であろうと関わりなく、ある特定のアーティストたちの、ある特定の演奏に「それ」を感じたのです。そのアーティストが有名か無名かも関係ない。かつてバリ島に旅行した時、ホテルの庭の片隅で演奏しているスーリン奏者の一吹に「それ」を感じとり、驚愕したことがあります。また、同じ曲にも関わらず「それ」を感じる演奏と感じない演奏がある、すなわち作曲ではなく「演奏」によって「それ」を宿らすことができる。演奏行為にこそ何かの秘密があるということが、ようやく解ってきます。さらに、それが演奏技術というものともあまり関わりがないことが解ってきます。どんなに技術的に優れていても、ただただ表層を滑っているような空疎演奏を耳にすることがなんと多いことでしょう。しかし明らかに稚拙な技術しかない演奏者でも、時に「それ」が宿ることがある。「それが宿ることがある」と云う意味は、奏者がそれを求めていようがいまいが、「それが宿るときがある」と云うことなのです。求めていようが、いまいが、それが宿る時もあり、宿らない時もある。どんなに求めても、そのリアリティーは実現しない。にもかかわらず、ある時、不意にそれはやってくる。私の探求は錯綜と迷妄のただ中をさまよいますが、年に一二度、自分の演奏に不意にやってくるリアリティーだけを頼りに、執拗に追い求め、しかし年月だけが経っていきました。

少なからず解っていることは「演奏時の意識の状態に深く関わっている」と云うことでした。しかし、その意識状態をどうしたら再現することができるのか。当時、最も安易に意識状態を変革する方法としてのドラッグと云うものを見ずに先に行くことは出来ませんでした。私が最も影響を受けたジャズアーティスト、マイルス・デイビスを初め、多くのアメリカのアーティストが薬物を多用していました。アメリカ音楽をドラッグ抜きに語ることは出来ないでしょう。しかし、ドラッグは両刃の剣で、大きな代償を払わなくてはなりません。多くの有能なアーティストが、人格破綻を起こし、最後は地獄を這いずり回り、短い命を散らしていきました。

さて、私の探求は15年以上になるにもかかわらず、さらに混迷し、身体的にも精神的にも、もう先行かない程のっぴきならない事態になっていました。そんなときに友人から得た情報と書店で見つけた本から、あるヨーガ系の瞑想法に出会います。私は当時、合理主義者で宗教と云うものに理解力は持っていませんでしたが、かといって「言葉」や「思想」「論理」と云うものにも強い失望感を持っていました。あらゆる方途を試し尽くしてだめだった訳で、残るはギブアップしかありませんでしたから、たとえ怪しくとも、ともかくやるしかないと云うのがその時の心境でした。その瞑想法を体験して一番最初に思ったことは、年に一二度だけでも不意にやってくる演奏時の意識状態に酷似している、と云うことでした。それから毎日、瞑想を練習する中で、演奏は日々変化をしていきます。瞑想を始めて10ヶ月程たった頃、2週間の集中的な瞑想合宿の中でインド最古の教典ヴェーダを吟唱するパンディエットのビデオを見せられます。そこには彼らが瞑想状態で吟唱しているのが映っていました。吟唱は単なる読経ではなく、まさしく音楽そのものとして、例の「ある求心力」をもって深く私の胸中に入ってきました。それは私に瞑想状態で音楽を演奏することが可能であり、その時にこそ求め続けていた「リアリティー」を実現することが可能なのだと言うことを教えていました。「瞑想状態で演奏する」ことが私の音楽の方法になった瞬間でした。瞑想状態がなぜ音楽にある求心力を呼び起こすのか、そのメカニズムを明確に解っている訳ではありません。ただ言えることは瞑想状態、あるいは変性意識状態では自我の統制が緩むと云うことはあると思います。統制や抑圧が緩み、奥底に眠る情動やインスピレーションやイマジネーションがダイレクトな形で表出し易くなるのかもしれません。ここで「表出」という言葉を使ったのは、それが内発的なものであるからです。「表現」がある恣意的な人間の意志による「行為」であるに対して、それはむしろ自動的に現出するような印象があるのです。しかし、瞑想状態、変性意識状態であるなら、演奏はそれだけで「リアリティー」を獲得できるのかと云うと、決してそうではありません。演奏中「音を聴く」こと、すなわちフィードバックすることが実は最も重要と思われます。しかも、それは単に「聴く」ということでなく、むしろ「視る」と云うことに近い感じがします。音楽は時間の経過の中でしか成立しません。画家がキャンバスの全体を視ながら色彩やフォルムを的確に描いていくように、演奏者は「時間を視る」ことができなければ、望んでいる場所に望んでいる音律を描くことができるはずがありません。演奏と云う時間の流れの中で、次なる一音をどこにどのように描くのか。「音」→「聴覚」→「脳」→「演奏行為」→「音」というフィードバック回路のなかで、瞬時に、そして連続的に、決定され続けていくのが演奏行為です。たとえそれが既成の曲で、音の並びが決まっていたとしても、次に演奏される一音が、どのタイミングで、どれだけの音量で演奏するかは、その時その時の瞬時に決定されていきますし、瞬時にしか決定されないのです。その「決定」が「どうなされるか」、つまり人間という全体的な存在のどの部分がそれをどう成すのかが、その演奏にいったい何が宿るのか、と云うことになる訳です。「演奏」と云うものは演奏者の意識の状態がそのまま刻印されていると言えます。そしてその奏者の意識状態は、オーディエンスに同じような意識状態を再体験させる、と思われます。つまり、「決定」が「高次」である時、それはオーディエンスの「高次」に働きかけることができると云う「仮定」が私の音楽の理念になっています。情動や情念と云った内的なものを解放すること、「音」→「聴覚」→「脳」→「演奏行為」→「音」という強靭で高速なフィードバック回路を確立すること、音楽的時間と云うキャンバスを俯瞰すること、そして一音一音の決定を「高次の何か」にゆだねること。演奏時に変性意識状態を保つことによって、以上のようなことを可能にします。勿論、変性意識状態で演奏する為には、日々の瞑想と演奏の修練は欠かせません。冒険家が未踏の地に憧れ続けるように、アーティストもその性として新しい地平を追い求めます。しかしながら、21世紀、現代では芸術表現は閉塞状態にあります。20世紀に「表現」は開発し尽くされ、解体され尽くされ、今や新しい未踏の地を見つけるのが困難になりました。しかし霊的存在としての人間には「意識の成長」という個別的な未踏の地を内包していることを、トランスパーソナル心理学が私たちに教えるところです。「意識の成長」という冒険のプロセスで、その都度その都度、音たちがどのような振る舞いを見せてくれるのか、オーディエンスとの間に音楽がどのようにあり得るのか、それを享受することが音楽家としての私の喜びです。

さて、演奏行為と云うあまりにも非言語的な体験の文章化は、言葉に置き換えることのもどかしさと、何か抜け落ちているような不全感を伴いますが、普段音楽に関わりながら漠然と考えていたものを分明化し、再確認にもなり、意味のある作業となりました。以上の文章が、皆さんのお心に留まることを願いつつ、終わりたいと思います。ありがとうございました。